19世紀ピアニスト列伝

ジギスモント・タールベルク 第1回:高貴な出自と革命的な演奏法

2014/08/11
ダニエル・シュタイベルト
高貴な出自と革命的な演奏法

フランス革命後のマンネリ化しつつあったピアノ音楽に「演奏革命」をもたらしたタールベルク(1812~1871)。その技法は、続くピアノ音楽の様式モデルとして直ちに定着します。貴族の落胤(らくいん)ではないかという伝説に包まれた男の編み出した演奏技法もまた、当時の人々の目には驚異的な神秘として目に映りました。

シギスモント・タールベルクは1812年1月7日1ジュネーヴに生まれた。とある言い伝えによれば、彼は大公家の生まれである。だが、彼が貴族の家の出であろうとなかろうと、それは [あくまで] 些細な点であって、これはこの大芸術家に帰されるべき賞賛の念、また彼の誉れ高い人生とたいへん尊敬に値する性格によって彼が集めた敬意を念頭において見るべき点ではない。彼は少年時代を才気と高度な知性を持ち合わせた母の傍らで過ごした。この若きヴィルトゥオーゾの教育については、何名もの教師が彼を指導する名誉に与(あづか)った。タールベルクがゼヒター2チェルニーフンメルのレッスンを受けたということを、我々は真実だと考えている。フンメルの美しい響きによって、タールベルクはピアノの力強さを増大させるための探求へと導かれたはずだ。チェルニーに関しては、ドイツのヴィルトゥオーゾでメカニスム3の完成の為にその貴重な助言を受けぬものはいなかった。タールベルクはこの上ない自在性と熱心な勉強のおかげで、まだ若くして非常に華麗な演奏を身につけた。気取った感情から、彼はこの驚くべき才能を練習せずに身に着けたと主張していた。自らを怠惰であると認めていたオベールと同様4、彼はそれを本当のことだと言っていた。

いずれにせよ、17歳のとき、タールベルクはサロンというサロン、コンサートというコンサートで演奏しウィーンで大きな成功を収めた。1828年になっていよいよ彼は最初の作曲の試作品を出版し、ドイツ旅行に着手、数年の後に手法的に確立することとなる新しい演奏法の輪郭を少しずつ作っていった。1835年から39年にかけて、タールベルクはヨーロッパ中を駆け巡り、いたるところで演奏会を開いてその特別な美点によって芸術家たちを驚嘆させた。彼のヴィルトゥオジティの並外れた能力は響きにもたらされた全く新しい広がり、見事な歌唱的手法よってピアノの流派に革新をもたらした。

当時、克服された難技巧と華麗な走句は[ピアノ]芸術の極致だった。クレメンティクラーマーカルクブレンナーにはなおも熱烈な信奉者がいたが、同じ形式5にうんざりしたヴィルトルオーゾたちはソナタや主題変奏の外で新しい道を模索していた。そこへタールベルクが彼らに強力な助けを届けにやってきたのだ。私が1835年に彼のパリ・デビューの際に彼の演奏を聴いたのは、ヅィメルマンのサロン6でのことだった。ヅィメルマンは、パリに立ち寄る外国の大芸術家たちを数多くの輝かしい顧客の前で最初に紹介する人物であることを名誉にかかわることだと考えていた。彼はパリの聴衆にその名声を公認してもらわんとしてやって来るあらゆる著名人の名付け親を好んで自称していた。その晩は、ヴィアルド夫人7、デュプレ8、ド・ベリオ9が音楽試合を完璧なものにした。タールベルクは驚くべき成功を収め、新しい効果は当時驚異的なもの10と思われたので、人々は彼の演奏するのを目の当たりにし耳を傾けて息を詰まらせていた。居合わせたあらゆるピアニストたちは、この若き大家が用いた手段を「目撃者として」理解したのだ。

参考音源
S. タールベルク 《スケルツォ》作品31嬰ハ短調

1834-35ころパリで出版された初期作品。そこにはまだ新しい手法はそれほど顕著ではない。1839年に満を持して出版した《ロッシーニの「モーゼ」の主題による幻想曲》作品39で彼は自身の「秘技」を初めて楽譜上で公開することになる。この話題には次回以降触れられる。

  1. 正しくは1月8日。
  2. ゼヒターSimon Sechter(1788-1867):オーストリアの作曲家、理論家、オルガン奏者、教育者。ボヘミア出身で、1804年にウィーンに移住。同地で長年にわたり教育に携わった。彼の門下からは、タールベルクのほか、ブルックナー、ブラームスの師マルクスゼン、ヴァイオリニストのヴュータンら優れた作曲家、ヴィルトゥオーゾが輩出された。主著に『作曲の諸原理』(1853-54)。
  3. メカニスム:フランス語で19世紀に定着した音楽用語で、様式に対し、演奏の物理的な側面(身体上のテクニック)を指す。
  4. オベール:過去の連載注2参照。オベールはオペラの分野において最も権威ある作曲家で、1842年からは師ケルビーニの後任としてパリ音楽院院長に就任するなど音楽社会において重要な役割をになった。当然勤勉であるべきオベールが自らを「怠惰」と称したとすればそれは一種の謙遜かユーモアであろう。勤勉なイメージと本人の発言のギャップの面白さを強調するためにマルモンテルはここでオベールの例を引いている。
  5. クレメンティクラーマーカルクブレンナー(それぞれ過去の連載記事参照)は指の完全な独立と、前腕の重さに依存せず手と指の動きに基づく音の繊細なコントロールを目指した。手の機能はしばしば右手と左手で役割が固定されており、左手は伴奏、右手は旋律もしくは旋律+伴奏という役割を果たした。そのため、右手には急速な音階や同音連打、三度や六度のパッセージが割り当てられ、それらの難しい技法をいかに流暢に弾きこなすか、ということが彼らの世代のピアノ演奏技法における主要課題であった。 一方で、民謡、アリアによる変奏曲、ソナタという形式は、18世紀の枠組みを踏襲した。
  6. ヅィメルマンPierre-Joseph-Guillaume Zimmerman (1785-1853):著者マルモンテルのピアノの師。パリ音楽院ピアノ科男子クラスの教授で、革命後の折衷的なメソッドの風潮を先導した。コスモポリタンな街パリで、様々な国際的流派のエッセンスを積極的に取り入れメソッドを確立。彼のサロンは1832年ころからパリのスカール・ドルレアンという新興住宅に構えた自宅で始まり、40年代中頃まで最新の音楽家を迎え入れる窓口として人々の注目を集め続けた。主著に『ピアニスト兼作曲家の百科事典』(1840)。作曲家としてもミサ曲、オペラ、ピアノ曲を残している。
  7. ヴィアルド夫人Pauline Viardot(1821-1910):スペイン系のフランス人歌手。天才的なソプラノとして知られ、わずかではあるが作曲もしている。ヴィアルド夫人は、一時期ヅィメルマンと同じくスカール・ドルレアンの住人で、ヅィメルマンのサロンでは自作のロマンスなどを歌った。
  8. デュプレGilbert-Louis Duprez(1806-1896):フランスのテノール歌手。25年、ロッシーニの『セヴィリアの理髪師』のアルマヴィーヴァ役でデビュー。イタリア滞在時には31年に『ウィリアム・テル』の初演に加わった。以後、19世紀を代表する大テノールとしてドニゼッテ、ヴェルディなど数々のオペラで名声を博した。自身作曲家としていくつものオペラを書いている。
  9. ド・ベリオCharles de Bériot(1802-1870):ベルギーのピアニスト兼作曲家。ヴィアルド、デュプレとともにヅィメルマンのサロンの常連で、殊に《ベートーヴェンの主題によるトレモロ-カプリース》を演奏して注目を集めた。
  10. タールベルクの演奏技法の新しさの本質は、左右の手の機能を伴奏-旋律にわけず、旋律を中声部においてそれを取り巻くようにアルペッジョの伴奏を配置することで、旋律・伴奏の両方を左手・右手で交互に取り合うというものだった。詳しくはピアノ曲事典項目参照

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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