19世紀ピアニスト列伝

ムツィオ・クレメンティ 第5回 楽器製造者、教師としてのクレメンティ

2013/04/23
楽器製造者、教師としてのクレメンティ
クレメンティ

音楽の才能はもちろん、教師、楽器製作・楽譜出版会社の経営者としての手腕を備えたクレメンティ。産業革命とともに楽器製造技術が発達しつつあった時代、モーツァルトより年上のクレメンティは長生きしたおかげで19世紀のピアノ音楽の基礎となる演奏技術を確立するに至ります。彼の教えは、クラーマーカルクブレンナークレンゲルといった優れた名手たちによってヨーロッパ中で伝えられることになります。

1781年から1792年にかけて、クレメンティはイギリスを離れなかった。イギリスにおける彼の非凡な活動は作曲や数多くのレッスンに費やされた。クレメンティのレッスンは大変な人気で、高額の謝礼が支払われた。会社倒産に巻き込まれ、資財運用の賜物である相当な金額を奪われたクレメンティは、友人1の励ましと彼らの財政援助に助けられ、重要なピアノ製造会社を創設し、ここに熱心に修得しようと励んだ経験と気配り、機械に関する専門知識をつぎ込んだ。彼が後に友人のコラードと共同経営することになるこの楽器製造会社は、クレメンティの活躍のおかげでヨーロッパ中に知れ渡り、彼にとって新しい財産の源泉となった。のみならず、この会社はピアノの技術に大きな前進をもたらし、同時にいっそう完成された楽器によって、あらゆるタッチの要求やあらゆる音の変化に応える様々な効果を引き出す可能性を芸術家たちにもたらした。

1802年、クレメンティは数多くの演奏会でその名を世に知らしめたお気に入りの門弟ジョン・フィールドと共に3回目のパリ旅行に出かけた。この弟子は教師に値する力量をもち、賞賛の的となった。ひとまとめにしておくべき大変豊かで貴重な思い出を持つオベール2が私に語ったことには、クレメンティがフランスに来て彼の愛するパリに滞在するたびに、オベールはその演奏を聴いたが、クレメンティはきまって同じような熱狂をもって迎えられたのだという。クレメンティはパリで何度もピアノを演奏しながらオーケストラを指揮し、交響曲を演奏した3。ヴィルトルオーゾとしての名声は減じ得なかったにせよ、交響曲作曲家クレメンティはこのジャンルの大家と同列には位置づけられなかった。クレメンティは著名なハープ奏者で私が子供時代に庇護を受けたナデールマン4と親交があった。ナデールマンもまた音楽と楽器を扱う重要な商会を経営しており、クレメンティはいくつもの自作品の所有権を彼に売り渡していた。数年前、私はナデールマンの娘たちにクレメンティの指使いがぎっしりと書き込まれた『グラドゥス』の楽譜を用いてレッスンをした。

ジョン・フィールドクラーマー5、ゾイナー6クレンゲル7ベルティーニ8カルクブレンナーはピアノの現代的な楽派の長クレメンティのお気に入りの生徒だった。だがクレメンティと知り合いになり、助言を求めることの出来たヴィルトルオーゾたちは多くはなかった。クレメンティほど人気のあるピアノ教授はいなかった。アンリ・エルツもまた彼のレッスンを受けた一人である。メロー は、感謝のこもった賞賛の念込めながら筆者にあの傑出した大家と親しく過ごした時間のことを語ってくれた。だが、クレメンティの流派を最も完全に体現し続けているのはジョン・フィールドに他ならない。クレメンティフィールドを連れてドイツとロシアを渡る旅行に出た。1802年から1816年にかけて、彼はヨーロッパを駆け巡り、作曲家・ヴィルトルオーゾとして喝采を浴び、教師として人気を高め、高揚した雰囲気の只中で何者も打ち破ることの出来ない強靭な意志をもって生きた。

正確で大変旋律的な作曲家、霊感溢れるが常に自制するクレメンティは、初心者のための小さなソナチネから大規模で美しいソナタ(作品42, 48, 50) に至るまで入念に、良心的に、比類ない技法で彼のすべての作品を書いた。《グラドゥス》は今日までに書かれた中で最も完璧な教育的作品である。そこではピアノ演奏技法が100の練習曲として示され、メカニスム、指の独立の特別な練習曲としてはもちろん、その大部分は趣味と様式の模範としても真の傑作である。《グラドゥス》は一つの音楽の記念碑であり、ピアノの現代的な技法に捧げられた寺院の最高の天蓋なのだ。

エマヌエル・バッハムツィオ・クレメンティはソナタの厳格なまでに学的な性格を変化させ、旋律線の定型を変容させ、ひたすら和声に凝る代わりに理想的な霊感を吹き込み、それまでは舞台作曲家だけに用いられた音楽的な楽想を活用しつつ、室内楽、及びとりわけピアノの為に新しい技法を創り出した。それは、実を言えばいにしえの大家に由来するものではあるが、そこでは堅苦しい定型から解放された音楽的霊感が自由に躍動し、形式のこの上ない多様性によって堂々とその個性を主張している。

  1. クレメンティの会社Clementi & Co創立のために出資したのは1798年のこと。以下の人物と共同出資した。ハイドFrederick Augustus Hayde、コラードFrederick William Collard、バンガーJosiah Banger、デイヴィスDavid Davis。
  2. オベール:Daniel-François-Esprit Auber (1782-1871) : フランスの作曲家、19世紀の最も影響力あるオペラ作曲家の一人。1842年、ケルビーニの後任としてパリ音楽院院長に就任、マルモンテルはオベールの後ろ盾を得て音楽院ピアノ教授の地位を得た。裕福な家の生まれで、19世紀初期、彼の家にはヨーロッパ中から優れた音楽家が訪れていた。
  3. クレメンティは自作交響曲の演奏の際、鍵盤楽器で通奏低音のパートを演奏しながら指揮をしていたと考えられる。
  4. ナデールマン François-Joseph Naderman (1781-1835): フランスのハープ奏者、作曲家、1825年、パリ音楽院最初のハープ教授に就任。兄のアンリ(1780-1835)は著名なハープ製作者。
  5. クラーマーJohann Babtist Cramer (1771-1853):ドイツのマンハイム出身、1773年からイギリスで活躍したピアニスト兼作曲家。今日では練習曲の創始者としてその名が知られているが、作曲家としてはモーツァルトを敬愛し、彼の様式を19世紀にもたらされた新しいピアノ演奏法と結び付けながら数々の作品を残した。
  6. ゾイナー:Karl Traugott Zeuner (1775-1841):ドイツのドレスデン出身のピアニスト兼作曲家。1802年にペテルブルクで旅行で訪れたクレメンティからレッスンを受けた。ゾイナーは一時グリンカの作曲の先生でもあった。
  7. クレンゲル:August (Stephan) Alexander Klengel(1783-1852): ドイツのピアニスト兼作曲家、オルガニスト。1803年にクレメンティに入門。フィールドと同様、師とともにヨーロッパ、ロシアを旅行し名声を博した。1817年にドレスデンの宮廷オルガニストに就任。ショパンは1829年にプラハを訪れクレンゲルに面会している。当時のショパンが愛着を示した作曲家の一人であり、ことに彼の48曲のフーガに敬意を評した。
  8. ベルティーニ:過去の翻訳シリーズ参照(第二章)

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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