会員・会友レポート

シンポジウム「歴史的ピアノと音楽文化」(後編)

2019/05/22
● シンポジウム 歴史的ピアノと音楽文化
執筆者:中野春花(音楽学)
第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールを振り返る 後編

2019年3月13日(水)一橋大学インテリジェントホール

前回の記事では、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールを振り返るシンポジウムの様子をリポートした。今回は小岩信治さん、川口成彦さんに行ったインタビューを踏まえ、本コンクール及びピリオド楽器のもたらす影響について報告する。

1848年製のプレイエル(所蔵:小倉貴久子氏)
小岩信治教授(音楽学)による考察

「楽譜に忠実」というのは、現代の音楽家なら誰もが意識する紋切型の表現です。しかし、実はこの考え方が根付いたのは19世紀後半以降。これに対し、ショパンが活躍した19世紀前半の演奏家はみな作曲家であり、即興の名手でありました。とりわけショパンは自身の作品を弾く度、違った演奏をしていたと伝えられています。「楽譜に忠実」であるモダンピアノ奏者に対して、このような、楽譜に書き残されなかった情報を含めた「演奏習慣そのものを重視する」のがピリオド楽器奏者です。ショパン国際ピリオド楽器コンクールも、ショパンや彼の同時代の作曲家の作品の真正な響き(authentic sound)を復元することを目的とします。そこで用いられるのがピリオド楽器です。ピリオド楽器は、日本の伝統楽器にも当てはまるような口頭でしか伝えられなかった情報や、楽器の都合や習慣を理由に「当然そうしただろう」と思われる情報を提供してくれます。つまり、ピリオド楽器に触れることによって、楽譜と演奏の介し方が変わってくるのです。川口氏が高く評価された理由は、彼が楽譜に書かれていることの背景を熟知し、当時の音楽的な語り口を身につけ、ショパンも当然その文脈の中にいただろうと思わせる演奏をしたからです。彼のような演奏は「楽譜に忠実」である以上に、楽譜を成り立たせている語法、装飾音、トリルの習慣を身につけることによって生まれます。「楽譜に忠実」な演奏をよく知る人は、装飾音やモデレーターペダルを使い、繰り返されるパッセージで二度同じことをしない自由な川口氏の演奏にはきっと驚くでしょう。しかし彼の演奏のような即興的な文化の中に確かにショパンも生きていたのです。「楽譜に忠実」という意識を否定するわけではありません。しかしピリオド楽器のもたらすこのような発想は、楽譜の背景を読む意識を生み出し、より豊かで生き生きとした音楽の有り様を学ぶことにつながるのだと思います。

川口成彦氏(フォルテピアノ奏者)による考察
審査員に対して意識したこと

本コンクールではポーランド国立ショパン研究所(NIFC)によって十分な勉強の場が設けられ、マスタークラスや審査員によるレッスンが催されました。仕方のないことですが、ピリオド楽器奏者のレッスンとモダンピアノ奏者のレッスンでは真逆の指導を受けました。例えば、和音をばらして演奏することや、右手と左手の打鍵のタイミングをずらすことをひとつの表現手段として考える、自由さをピリオド楽器奏者が持っている一方で、モダンピアノ奏者は右手と左手を同時に弾くようにと言います。ピリオド楽器奏者は当時の演奏スタイルを研究した上での美的価値観、モダンピアノ奏者は20世紀的な美的価値観をそれぞれ持っているのです。両者の価値観を考慮した結果、リピテーションをうまく利用してどちらの価値観にも対応出来る演奏をしました。つまり1回目は右手と左手をピッタリと合わせ、2回目は、水を得た魚のように自由に弾いたのです。それがある意味ヴァリアントになったため、音楽表現の多様性や豊かさにつながり、面白い演奏ができたと思います。ちなみに演奏会では、僕は自由に弾いています。しかしコンクールという場所は審査員によって演奏を批評される場ですし、特に本コンクールはアカデミックな側面を強く持っているので、それなりに意識して準備をしました。言い換えれば、今回のピリオド楽器コンクールは、求められていることや準備すべきことが明確だったと思います。そして準備そのものがショパンの勉強になりました。

「真正な響き」を求めて

モダンピアノをフォルテピアノに置き換えた途端、ショパンが実際に聴き、演奏した音を感じられるわけではありません。ショパンをよりリアルに再現するならば、自分の思考や感覚を変えるべきです。僕は小学生の頃からなんとなく、インプロビゼーション(即興演奏)をして遊ぶことがありました。中学生の頃には作曲も行ってみたりしていましたが、実際に楽譜を書く作業に時間を取られすぎ、作曲はやらなくなってしまいましたが(才能も感じられませんでしたし)。けれど今は古楽器の演奏を通して即興演奏や作曲の楽しみのようなものを味わったりしています。つまり即興的な装飾を入れたり、カデンツァ、アインガングを自ら生み出すということです。それらを入れるのはその場の即興であることもありますし、やはり不安な時は楽譜に書き起こしたりもします。また僕が今努力しなければいけないことに、インプロビゼーションのスタイルをより深く学ぶこともあげられます。ブルージュ国際古楽コンクールにて「あなたはC.P.E.バッハのカデンツァ集を見たことがありますか。」と指摘されました。つまり、作曲家それぞれの語法による装飾音があるのです。モーツァルトの作品の中では、全く時代の違う例えばショスタコーヴィチの語法ではなく、まるで自分にモーツァルトが乗り移ったかのようなふさわしい語法のパッセージを生み出さねばなりません。

楽譜を読む 

楽譜を正しく読むには、その土地、時代の様式を学ばなければなりません。楽譜に書かれた通りに音を発音しても、それは日本語のニュアンスを知らない外国人が台本を読むのと一緒です。日本人は「おはようございます」を言う時、意図せずとも「す」に向かってディミヌエンドします。日本語を母国語とする人にとっては書き記しておく必要のないようなことも読み取り、再現するまでが、本当の意味での楽譜を読む力だと思います。僕は、教養なくして芸術はできないと考えています。音楽や芸術は大変知的な活動で、知識や教養の有無によって、生み出せる音楽の深さや次元が変わってきます。ピアノを指導する側も常に自分を拡大する場に身を置き、勉強し続ける必要があるでしょう。とにかく演奏をするって色々なことを考えなきゃいけない。大変ですよね。僕の勉強も一生続くと思います。


ピティナ編集部
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