海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

今こそ音楽を!第5章 総合大学教養科目~慶応大学「身体知・音楽」とは

2015/11/06
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第5章:「大学最新カリキュラム編」
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音楽で思考法、実践力、創造力を養う
~総合大学教養科目
慶應義塾大学:知識は実践してこそ!「身体知・音楽」

私立総合大学最高峰の一つ、慶應義塾大学では多彩な音楽科目が開講されている。中でも「身体知・音楽」()という科目は、一般学生が教養として音楽を学ぶ意味がよく分かる授業だ。現在、声楽アンサンブルと古楽アンサンブルの二つが開講されている。これは教養教育センターが主催している科目で、ほかに「身体知」「身体知・映像」などがある。「身体知」という言葉に、どんな学び方の鍵があるのだろうか。日吉音楽研究室の佐藤望先生にお話をお伺いした。



一般学生が教養として音楽を学ぶ環境
~身体知・音楽とは何か
頭で考えたものを行動で実践していく「身体知」

佐藤望先生
慶應の教養教育センターが提唱する「身体知」とは、どのようなコンセプトでしょうか?

学問として頭で考えて学んだものを、外に向けて意味のあるものとするためには、社会に目を向け、身体で行動を起こしていく必要があります。たとえば文学のワークショップでは、演劇・舞踊・歌・文学等を通して、どのようにコミュニケーション力を高めることができるか、社会貢献がどうできるか、などを研究しています(担当:横山千晶教授)。最近では横浜の一部の簡易宿泊施設の集中する地域で、産業社会の底辺を支えてきた人たちが人知れず身体を痛めて亡くなっていくケースが増えていますが、そこで何が起こっているのかといった社会問題にも目を向けていこうとしています。

佐藤先生のご担当されている声楽アンサンブルでは、どのような授業を行うのでしょうか。またどのように「身体知・音楽」というコンセプトを体現しているのでしょうか?

今年の声楽アンサンブルでは『地球へのバラード』(三善晃作曲・谷川俊太郎作詞)を仕上げ、2016年2月に岩手県大槌町と花巻市で歌う予定です。提案して下さったのは、花巻市に避難中の子供たちにも合唱指導されている声楽家の古川精一先生です(宮澤賢治児童合唱団)。これまで横浜市との社会連携は行ってきましたが、もう少し広げていくことになりました。

では、なぜ『地球へのバラード』なのか?三善晃、谷川俊太郎は同じ年代・場所(東京都杉並区)に生まれ、ともに学生時代の最中に、焼夷弾が落ちていく中を走って逃げるという戦争体験をしています。お互いに通じ合うものがあったのですね。谷川の素晴らしい詩に三善晃が渾身の作曲をしたわけですが、大学生を念頭においた響き・リズム・メッセージが込められていて、私自身も高校時代に初めて聴いて感動したのを覚えています。ぜひ学生と一緒に歌いたいと思い、昨年も年間26回の授業で全5曲を仕上げて演奏会を行いました。

大槌・花巻では、私が編曲した「故郷(ふるさと)」などの唱歌も歌います。実は企画段階で、大槌町のNPOの方から「復興米でおにぎりを作りましょう」とご提案を頂きました。復興米とは、津波に流されて全てを失った土地で、偶然岩陰に残っていた数本の苗を大事に育てて作ったお米です。それを頂いて、その場所で歌います。学生には、学校と大槌で「故郷」を歌う重みの違いを感じてほしいのです。

この他、声楽アンサンブルクラスでは『バッハのモテット×シュッツの複合唱』の演奏会も10月に行います(※終了しました)。コラボ相手のアンサンブルミリムは、「9人でバッハ」というコンセプトのもとに若手音楽家(新国立劇場合唱団、バッハコレギウムジャパン、東京混声合唱団などのメンバー)が集まったグループで、指揮の根本卓也氏(新国立劇場副指揮者)には定期的に学生を指導して頂いています。彼が普段どのように活動しているのか、その姿も学生に見てもらいたいですね。

専門的に高度な技術を学ぶことも身体知ですが、身につけた音楽知識や技術をどうやって人や自分が幸せになるために考えて行動するか、それが「身体知」だと私は考えています。


リベラルアーツとしての音楽
仰るように、音楽を身体技法としてだけでなく、社会環境や歴史的文脈も踏まえながら、行動に置き換えることが大事ですね。リベラルアーツとして音楽を学んだ学生の中には、どんな方がいらっしゃいますか?

音楽は科学、社会、体育、医学、歴史、外国などあらゆるものと繋がっていて、音楽と結びつけば何でも「〇〇音楽学」となります。そのような学問は他になかなかありません。ですから専門を一つに限定しないこと。昨今の激しい社会的変化の中で、学際的な学び方はますます重要になってきています。たとえば、「数学を学んでいたが、ぱっと環境が変わったら、その知識をベースにして他分野に移ることもできる」、そんな学生を育てたいですね。

商学部卒業生で、現在インドの大学院で勉強している人がいます。彼は2年間、声楽アンサンブルで一緒に歌っていました。卒業後は大手商社に4年間勤務していましたが、ある日「将来インドで学校を創るために、ニューデリー大学大学院(社会奉仕科)で学びたい」と、私に推薦状執筆の依頼がきました。シュッツを一緒に歌った人が、インドで学校を創ろうとしているなんて、夢があっていいじゃないですか!これこそまさに「身体知」、彼に推薦状を頼まれて誇らしく思いました。彼は大学やインド政府の奨学金だけでなく、会社同僚や先輩も共感して出資してくれたようです。留学に踏み切ったきっかけは、岡本太郎の「自分の中に毒を持て!」という言葉。芸術家が命をかけて表現したことを感じ取れること、自分が身につけてきた音楽をもってどう生きていくのかを学ぶこと、それがリベラルアーツだと思います。

音楽を深く学んだからこそ、音楽家に対する敬意も
リベラルアーツで培った価値観や考え方が見事に生きていますね。ところで、音楽を専門的に学んでいる学生もいらっしゃいますか。


日吉キャンパスは一般教養専任で200名の教授がいる。きわめて自由な校風で、教授陣もさまざま。台湾で薬剤師の国家資格を持っていながら中国語を教えている先生、吉原の江戸文化の研究をしている先生、筋肉の研究をしている先生、「科学者に科学を教えるよりも、将来ビジネスマンになる人に科学を教えたい」と生物学を教えている先生など。「大学で繋げてあげられるのは、先生や生徒との出会い」と佐藤先生。

大学全体の約2割が一貫校(慶應大付属小・中・高)出身ですが、幼少の頃から楽器を習っている人も多いです。2012年日本音楽コンクール・ヴァイオリン部門優勝の大江馨さんも慶應です。他にもヴァイオリンや古楽器演奏に優れた学生や、音楽学でパリに留学した卒業生もいます。和声や音楽史の授業などもありますし、論文が書ける資料環境も充実しています(三田キャンパス)。音楽学の常勤教員は6名ですが、非常勤の先生方も若手で優れた人が多いですね。

我々教員としてはメソードをきちんと教え、最後に演奏会まで仕上げていくのが目標です。そして、たとえば3分の音楽を作るのがどれだけ大変か、プロがいかに様々な苦労を乗り越えて舞台に立っているのか、それを知っている人になってほしいです。それが人生をかけてプロになった人に対するリスペクトでもあるし、意見や批判を述べるにしても根拠と自信を持って言えるでしょう。

何より、音楽文化を育ててくれる人がここから育ってくれればいいなと思います。モーツァルトやベートーヴェンも勉強しますが、それ以外の音楽にも凄いものがある。歴史の長いスパンの中で、知識全体を見ていくのが大学のミッションだと考えています。


  • 「身体知・音楽」には、合唱音楽を通じた歴史的音楽実践(声楽アンサンブル)と、古楽器を通じた歴史的音楽実践(古楽アンサンブル)がある(住友生命保険相互会社寄附講座)。現在声楽アンサンブル48名、古楽オーケストラ20名、オーケストラ40名で、その他オペラや弦楽四重奏のクラスもある。新年度よりジャズのクラスが開講予定。また教養教育センターではアカデミック・スキルズの授業も開講している。英語ディベートクラスでは「安楽死」「原発再稼働の是非」などをテーマに討論するそうだ
INDEX

菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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