海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

今こそ音楽を!第2章 歴史的観点から 3. 日本では、音楽を専門および師範教育として

2015/06/12
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第2章:歴史的観点から。
音楽はどう学ばれてきたのか~専門と教養と 1 古代・中世では、音楽を教養として
日本に西洋音楽を導入したのは

では日本ではどのように音楽が学ばれてきたのだろうか。奇しくもハーバード大学で音楽学科が軌道に乗り始めた頃、そのすぐ近くで、日本の音楽教育創生期に大きな役割を果たすことになる二人が知り合った。伊澤修二とメーソンである。

1879年(明治12年)、日本の音楽教育に関する調査研究・教員養成を目的として、文部省に音楽取調掛が設立された。その御用係となる伊澤修二は、1877年に米ニューイングランド・ノーマル・ミュージカル・インスティチュートの夏期学校に参加した。そこで米音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソンと知り合い、後に日本政府雇外国人教師として取調掛に迎えいれることになる。彼が愛用していたピアノとともに。

1883年より、取調掛では専門教育および師範教育のための伝習生(学生)を募った。創設当時は伝習期間1年であったが(前半はピアノと唱歌、後半は音楽教育実習)、欧米の音楽学校制度を研究し、4年制カリキュラムへ移行した。そして修身、唱歌、洋琴、風琴、箏、胡弓、専門楽器、和声学、音楽論、音楽史、音楽教授法の科目履修が義務付けられるようになった(『音楽教育成立への軌跡』p27、東京芸術大学音楽取調掛研究班編著・浜野政雄・服部幸三監修、音楽之友社、1976年)
※修身とは、教育勅語発布から第二次世界大戦終結まで続いた当時の道徳教育を指す。

中でもピアノに最大の比重が置かれ、4年間全学期においてピアノ実習が行われた。1年次にはバイエル、2~4年次には「ウルバヒ」Karl Urbachという教則本が使われていた。このウルバヒ教則本を日本に紹介したのは、1878~1881年に米ニューヨーク州ヴァッサー女子大学音楽科に留学し、後に日本初の本格的なピアノ教授となった瓜生繁と見られている。内容としては、ハノンの指訓練から始まり、民謡、クラーマーなどの小品、クーラウ、クレメンティなどのソナチネ、和声学の簡単な解説と用例、カデンツの形成法、コラールの楽節、シューベルトの歌曲、モーツァルトやウェーバーのオペラからの編曲、連弾などが含まれていたそうだ。明治時代に、このような多角的に音楽を学ぶ教則本も存在していた。

その後瓜生は病欠となり、その代講をした奥好義はのちに『洋琴教則本』を上梓し、それが後に東京音楽学校初期の教材として用いられるようになった。これはバイエル1番~106番、簡単な楽典、民謡の小品をまとめたものである。恐らくこれが契機となり、その後長らくバイエルがピアノ教則本の中軸をなすことになったと考えられる。


楊州周延『欧州管絃楽合奏之図』(1889年、神戸市立博物館蔵)
近代から現代へ至る歴史の中で

1887年に音楽取調掛は東京音楽学校へ改組し、伊澤が初代校長に就任した。東京音楽学校は本科・師範科に分かれ、本科は修業年限3年で、ピアノを含む器楽部は、修身、器楽、唱歌、器楽合奏、音楽理論、音楽史、国語、英語または独語、体操で科目構成されていた。師範科は全国小学校の音楽教員養成のため特に唱歌教育に力を入れ、その伴奏として使われたのがオルガンやピアノであった。本科入学試験では、ピアノ専修受験生はソナチネアルバム第1巻のソナチネまたは簡易なソナタ、師範科ではバイエルが課されていた。(『音楽家になるには』職業指導研究会編、1933年)また
この音楽学校で幸田延に師事し、日本人女流ピアニスト第一号と称賛されたのが久野久である。彼女は1918年にベートーヴェンの演奏会を開いて成功を収め、その後国費留学生としてウィーンへ派遣されるが、エミール・フォン・ザゥアー教授に基礎をやり直すよう指摘されたことを苦に自死した。しかし教授は、ここまで日本人がピアノを習得したことに驚いたとも言われる。

明治時代の欧化政策、大正時代の自由主義的な雰囲気の中で、西洋文化も親しまれた。留学先や理論書などの教材入手先は、次第に米国からドイツが主流となった。日本に西洋音楽が輸入されて50年が経つ頃には、私立音楽学校も何校か開校され、学習者も増えていたようである。そんな中、10代前半で渡仏した原智恵子はパリ国立高等音楽院を首席で卒業し、1933年に帰国後初のピアノ独奏会を開いている(1937年にはショパン国際コンクール日本人初入賞15位)。しかし同じ1933年、日本はドイツとともに国際連盟から脱退し戦争の道を突き進み始めることになる。そして戦時下においては“文化指導”の名の下に国粋的な文化統制が行われ、西洋文化排斥運動も起きた。クラシック音楽は同盟国ドイツのものが主であったため、英米言語・文化ほど排除の対象にはならなかったが、自粛を余儀なくされた。

戦後はふたたび、多様な芸術文化が戻ってきた。1949年には東京音楽学校と東京美術学校が統合され、東京芸術大学が設立された。この時、楽理科なども設置されている。以後音楽の高等教育は、同大をはじめとする諸音楽大学を主な担い手として行われてきた。西洋音楽の探究や習得のために重ねられた不断の努力によって、ピアニストなど多くの優れた演奏家や作曲家を生み出した。

日本に西洋音楽が導入されて100年が経つまでには、主要国際ピアノコンクール入賞者も現れ、1950年代は田中希代子、1960~1970年代は中村紘子、内田光子、野島稔、海老彰子の各氏等、日本人が優秀な成績を修めている。また学習者や愛好者の急増にともない、楽器の製造数や教材の種類も増えた。現在はピアノ学習者人口だけでも100万人を超えると言われる。

社会における音楽のあり方も年々多様化し、近年では新たな試みも出てきている。たとえば東京芸術大学では映像芸術・舞台芸術までを包括した総合芸術大学への改革、修士・博士課程において音楽学から音楽文化学への改組、音楽音響創造研究分野・芸術環境創造研究分野の設置、社会連携センターの設置・整備など、より幅広い社会的文脈の中で音楽を捉える試みがなされている。他の音楽大学でも新しい動きがみられる。(詳しくは第5章へ)。

あらためて日米の高等教育機関での音楽教育創成期を振り返ると、アメリカでは“専門と教養”、日本では“専門と師範”という二段階で教育がなされていた。今後日本でも“教養”の要素が広がっていくかもしれない。

大学教養教育に音楽を取り入れる新たな動きも

ここで、総合大学における教養教育の経緯を見てみよう。戦後アメリカに倣い、「民主的市民の育成」を目標として大学に教養教育が導入された。が、経済界などから専門教育重視の要請が強まり、1970年代には教養教育の形骸化が叫ばれるようになり、1991年大学設置基準の大綱化によって、一般教育(教養課程)の履修区分や単位数規定が廃止された。これによって教養課程の解体が急速に進んだとされる。『21世紀の教養と教養教育』日本学術会議、2010年

成長社会から成熟社会へのグローバルな変化の中で、教養教育の重要性も見直され、最近ではその一環として音楽・芸術科目を取り入れる動きもある。たとえば慶応義塾大学では合唱や弦楽などの授業が開講されている。また東京音楽大学と上智大学には単位互換協定があり、東京音大生は上智大の教養科目を、上智大生は東京音大の音楽科目を履修できる。従来からミッション系や教育系大学で音楽を学ぶ機会はあったが、教養教育として広く全学生に開講されている大学はまだ少ない。現在は約780大学中の数校~十数校かもしれないが、将来的にこのような学びが増えていくのではないだろうか。大学間の単位互換やコンソーシアムもその一助となるだろう。音楽資源を学生全般の教養を高めるために生かすことは、考え方次第でいくらでも広がる可能性を秘めている参考:第3回目「本質を問う力」

米国では文理問わず、すべての学生に教養課程は必要であるという考え方だ。ここに世界トップの科学技術系大学、MITマサチューセッツ工科大学の理念をご紹介したい。

「MITの強みは科学技術界のために創造性とイノベーションを育むだけでなく、科学や技術が生まれる土壌、すなわち社会文化環境をより豊かにしていくフロンティア的存在でもある。世界の難題に立ち向かうには技術や科学的創造力に加え、文化・政治・経済活動を営む人間そのものの複雑さに対する理解が必要である」(2013-2014 Bulletin, “School of Humanities, Arts, and Social Sciences”より)。

未来社会創造の一担い手として、科学と人間理解を等しく尊重していることが伺える。MITでは1865年創設時から人文・社会科学の重要性が言われつづけており、1930年代には人文学部が設立され、1980年代後半から芸術科目が増えはじめ、2000年代には人文学・芸術・社会科学学部へと名称変更された。音楽・芸術が教養科目として開講されている様子はこちらをご参照頂きたい1章・第2回記事)。


MITキャンパスにあるモニュメント

米国では"STEM(Science-Technology-Engineering-Math)"と呼ばれる理数系科目に力を入れる政策もあったが、これに対して、Artsを加えた"STEAM"にすべきとの政策提言が多くなされた。「人間とはなにか」という根本理念は、どの時代も変わらないはずである。

INDEX

菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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