19世紀ピアニスト列伝

ド・モンジュルー夫人 第4回(最終回)

2016/04/01
ド・モンジュルー夫人 第4回(最終回)

 今回でド・モンジェルー夫人の章は最終回です。今回はお決まりの人相描写から始まりますが、マルモンテルはド・モンジュルー夫人のポートレートを持っていなかったようです。彼は「美の女王というわけではなかった」と伝え聞いた印象を綴っていますが、右の肖像画はむしろ笑みを湛えた彼女の愛らしい姿を示しています。マルモンテルは最後に、ド・モンジュルー夫人のライバルと目されたビゴー夫人に言及しています。ビゴー夫人はハイドンベートーヴェンと親交のあった名ヴィルトゥオーソで、ベートーヴェンの《熱情ソナタ》を自筆譜から初見で弾いたという逸話があります。

ド・モンジュルー夫人

 目下、私はド・モンジュルー夫人の肖像を一つも持っておらず、個人的には彼女と面識はなかった。だが、晩年の彼女に会った旧友の回想を要約すれば、美の女王というわけではなかった。ただ彼女の大いなる才能だけが他の女性芸術家に優っていた。彼女は生き生きとした鋭い眼差しをもち、あの家系の気品、洗練された礼儀、旧貴族の生来の魅力を備えていた。

 彼女は当時の女性的ヴィルトゥオジティを比類なきまでに支配していた。しかし、彼女を正当に評価しつつも、もう一人の著名な女性ピアニスト、ビゴー夫人1の思い出を喚起しておかねばならない。1786年、コルマール生まれのビゴー夫人はモンジュルー夫人と才能を競い、彼女の最も輝かしいライバルの一人だった。ビゴー夫人は比類ない演奏技量を持っていた。表情豊かで、精彩あふれる彼女の演奏は、これ以上ないほど魅力的だったので、私はオベールが疑いを差し挟む余地のない深い確信をもって彼女を賞賛するのをしばしば耳にしたものだ。この回顧的な敬意は、オベールが抱いていた彼のピアノの師ラデュルネールの想い出とともに、私の心に残った。感受性はビゴー夫人の支配的な性質だった。それは、彼女の繊細でやや病的な素質、深い感情、そしてとりわけ大いなる様式で書かれた作品に対して彼女が持っていた天才的な直観に根差していた。ハイドンヴィオッティクラマーケルビーニベートーヴェン、バイヨがたいへん詩的な気質をもつこの魅力的な若い女性のために、高揚にすら至る賛美を示したのだ。吝嗇に迫るほどの倹約的精神の持ち主、クレメンティに関して、彼は火と紙を節約するためにビゴー夫人宅に出向いて書簡をしたためていた。

 才能と健気さで築き上げた輝かしい名声は我々の祖先を感動させ魅了したが、今日、それは忘却の平安か類稀な愛好家たちの追憶の中に憩っている。ド・モンジュルー夫人は1837年5月20日、フィレンツェに没した。彼女の若く愛想のよいライバル、ビゴー夫人は1820年、始めは気に留められもしなかった肺の病が突然災いして34歳でなくなった。だが、演奏家たちが真でも、芸術は不滅である。芸術は、芸術家の世代とともに変容する。ドュヴェルジェ、プレイエル2、ファランク3、マサール4、サルヴァディ5、モンティニ=レモリー6、ヤエル7、ヴィアール、G. ポチエ8各夫人など、彼女たちは、先駆者の素晴らしい美点と大いなる伝統を継承した。正当な名声を得ているこれらの人物に、我々はパリ音楽院という我らが国立学校で教育された輝かしい1等賞受賞者たちを加えることができるだろう。栄冠を手にしたこれらの生徒の大部分にあっては、手にした成功は名声を約束する。だがそこから栄光の現実を作り出すには、彼女たちは祖母たちによって示された実例を範としなくてはならない。彼女たちはまた、祖母たちが抱いた学習に対する愛、強い信念と不屈の忍耐から霊感を得るべきである。これらは、ド・モンジュルー夫人の名が要約し、女性を高揚させつつ芸術の栄光を讃える美点に他ならないのである。

  1. Marie Kiéné BIGOT (de MOROGUES) (1786-1820) : コロマール生まれのピアニスト兼作曲家。バッハをレパートリーとしたヨーロッパ最初のピアニストの一人。ヴィーンのラズモフシキ伯爵の司書ポール・ビゴーと結婚し、ヴィーンに移住、ハイドン、サリエリ、ベートーヴェンと交流をもった。フランス国立図書館には、ベートーヴェンが彼女に充てた手紙が保存されている。彼女はベートーヴェンの「熱情」ソナタを初見で演奏したという逸話がある。パリに戻ってからはケルビーニ、オベール、とりわけ名ヴァイオリニストのバイヨの一家と親交をもった。メンデルスゾーンが子どものころ、1816年に初めてパリを訪れたとき、彼女はメンデルスゾーンを指導している。ピアノ用の作品も数点出版している。
  2. 過去の連載記事参照
  3. 過去の連載記事参照
  4. 過去の連載記事脚注3参照
  5. サルヴァディ夫人 Mme Wilhelmine SZARVÀDY née Clauss(1843-1907): プラハ出身のピアニスト兼作曲家。リスト、モシェレスと交流したドイツ旅行を経て1851年にパリでデビュー。ベルリオーズの指揮でフィルアルモニー協会と共演した。54年、再びドイツを訪れ、リスト、シューマン夫妻、ブラームスに会う。翌年、ロンドンで結婚、サルヴァディ夫人となる。彼女はパリにおいて、同時代のドイツのピアノ、ブラームスを中心とするピアノ曲、室内楽、協奏曲を積極的に演奏した。1876年に彼女がパリで演奏したブラームスの《ピアノ協奏曲第1番》はパリ初演となった。ヴィーンの美学者ハンスリックは、彼女に著書『音楽美論』のフランス語版を献呈している。1880年以降、彼女は4手作品をしばしば取り上げ、パリ音楽院教授E.-M.ドラボルドとベートーヴェンの《交響曲第9番》やアルカンの作品を共演した。1907年、パリで没する。
  6. 過去の連載記事脚注4参照
  7. エル夫人Marie-Christine Jaëll(1846-1925):アルザス地方出身のピアニスト兼作曲家、教育者。シュトゥットガルトで教育を受け、1856年に出身地方のアグノーでデビユー。イグナーツ・モシェレスとアンリ・エルツの指導を受け、パリ音楽院で指導を受けた後者のクラスで1862年に1等賞を獲得。セザール・フランクとサン=サーンスには作曲を個人的に師事した。1866年、ピアニスト兼作曲家のアルフレッド・ヤエルと結婚。彼もまたモシェレスの門弟で、チェルニーの弟子でもあった。普仏戦争後、1871年から自作品の出版を開始。彼女の《ピアノ・ソナタ》はリストに献呈された。1891年、彼女はサル・プレイエルでリストの「全ピアノ作品」を取り上げる演奏会を6回に亘って敢行し、92年から94年にかけては初めてべートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行った。20世紀にはいると教育者として独自の方向性を開拓し、指紋採取からタッチの奥義を探究、独自のシステムの構築を試みた。1925年、パリにて没。
  8. ポチエ夫人Marie-Ambroisinem dite Minette POTIER, née DE CUSSY(1817-1887):ソプラノ歌手。パリ音楽院では1836年にピアノの二等賞、1837年に声楽の1等賞を獲得した才媛である。オペラ・コミック座とオペラ座で声楽のコレペティトゥール(シェフ・ドゥ・シャン)を務めた作曲家、アンリ・ポチエ(1816-1878)と結婚。オペラ=コミック座で活躍した。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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