19世紀ピアニスト列伝

フェルディナント・ヒラー 第5回(最終回)その作品と底知れぬ情熱

2015/12/03
フェルディナント・ヒラー
第5回(最終回):その作品と底知れぬ情熱

今回でヒラーの章は最終回となります。著者マルモンテルは、最後に作曲家、教育者、指揮者、著述家としての業績を挙げたのち、お決まりの人相描写で章を閉じます。ヒラーの作品群は、その作品の規模、多様性と独自性から見て明らかに19世紀ピアノ音楽史のもっとも大きな空白を埋める重要なパズルのピースです。研究の深化に伴うエディション作成と普及、演奏の双方が前進することで、やがてその真価が問われる時代がくるはずです。

リース

 ヒラーは、いくつものすばらしいコンチェルト、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲、多数の四重奏、様々な難易度のピアノおよびヴァイオリンの練習曲集6作、リズム練習曲集[作品5256]、ショパンに献じられたカプリース集[作品14]、マイアベーアに献呈された25の超絶的な難易度の25の練習曲1、複数の幻想曲、ロンド、主題変奏曲、古の巨匠の様式と現代のロマン的様式による数多の性格小品を書いている。《妖精の踊り》[作品9]、《地の精(グノーム)の踊り》2、《ガゼル》[作品54又は154]、《ギター》[作品97]、《ガヴォット》、《サラバンド》[いずれも《3つの小品》作品115]3、《幻想的カプリース》[作品10]、《古風に》[作品137、即興曲]、《即興曲》はモンティニ=レモリ夫人4によって、見事に演奏された。
 シューマンステファン・ヘラーに倣い5、彼が若いピアニストたちを軽視することはなかった。彼は《練習の後に》というタイトルのもと、若者たちのために易しく魅力的な作品を書いた。
 フェルディナント・ヒラーは還暦を超えたが、今なお若いころと変わらず、情熱的で活動的だ。作曲教授、ケルン音楽院の院長、自ら熱を上げて推進した大音楽祭6のオーケストラ指揮者だった彼は大儀と音楽的真実、純粋な伝統のために戦いながら戦闘拠点に身を置き続けた。その上、彼は一度ならず、健筆と鋭く削られたペンを手に論争を巻き起こした美学的な諸問題を擁護した。そして気が向けば音楽批評を書いて、そこに熟達した著述家、大芸術家の機転、熟練の手腕、信念を持ち込んだ。
 我らの名高い同僚の肖像を身体的側面から素描するのは容易なことだろう。不幸をもたらした戦争7の悲痛な波乱によって彼はもう長いことフランスを訪れず、分け隔てられてしまったが、それでも我々はたいへん長いことフランスの賓客だったこのヴィルトゥオーソの忠実な想い出をいつまでも抱き続けた。ヒラーは平均的な身長で、恰幅がよい。精悍で、目鼻立ちがくっきりとした彼の頭部は不屈の意志の証しであり、禿げ上がって突出した頭は思想家のそれである。引き締まった鋭い眼差しは、鋭敏な精神を示している。我々がその価値を重さを認めるほどよく知っているこの著名な音楽家、フランスの友であり続ける――そう我々は確信している――傑出した大家が、今後も長く活動することを願っている。音楽の理想世界、美と気高さと正義の普遍的な土地で兄弟として一つになり生きるために作られた二つの大国を分け隔てた残酷な出来事にもかかわらず。

  1. 原注釈:[批評家、理論家の]フェティス曰く、それぞれの練習曲のはっきりとした性格の点から、新しく際立ったジャンルの卓越した作品である。[訳者解説:この作品は《6つのエチュード組曲》作品25で、4曲ずつ6つの組曲を構成している。
  2. おそらく《妖怪の踊り》作品9を指す。
  3. この2作は《ガヴォト、クーラント、サラバンド》作品115を指すと思われる。
  4. モンティニ=レモリ夫人(旧姓カロリーヌ・レモリ・セレスCaroline Serres Rémaury, 1842-1913)は、フランスのピアニスト。パリ音楽院で1858年にピアノの1等賞、1862年に和声の1等賞を獲得した。1860年代から注目を集め、バロックから同時代作品まで幅広いレパートリーの演奏で評価を高めた。フォーレは《舟歌第1番》、フランクは《鬼神》、サン=サーンスは《ウェディング・ケーキ》作品76を彼女に献呈している。1885年にオーストリア国営鉄道の長と結婚、ヴィーンに移住しオーストリア、フランス両国で活躍しつつ、またフランス音楽のオーストリアにおける演奏にも貢献した。1887年に手術により右腕が動かなくなったため、彼女はサン=サーンスに左手の練習曲を書くように依頼、これにより《左手のための6つの練習曲》作品135が生まれた。
  5. シューマンとヘラーは、それぞれ子どものための曲集を書いており、シューマンは《子どものためのアルバム》作品68、ヘラーは《若者に捧ぐるアルバム》作品138を出版した。
  6. ヒラーが運営に貢献していたライン音楽祭のこと。
  7. 普仏戦争のこと。これは、1870年、フランスがプロシアと戦火を交え、翌年、皇帝ナポレオン三世が捕虜になり、フランスにとっては不名誉な結末を迎えた。マルモンテルのこの著作は、敗戦から6年後に出版されているが、なおも独仏の音楽的交流にこの戦争の結末が影を落としていたことがわかる。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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