19世紀ピアニスト列伝

フェルディナント・ヒラー 第4回 豊穣すぎる才能と不当な評価

2015/06/22
フェルディナント・ヒラー
第4回:豊穣すぎる才能と不当な評価

 余りに多岐にわたるジャンルで作曲したために、その作品の質が優れていても正当な評価を受けない例は珍しくありません。たとえばフンメルチェルニーライネッケは職人的な手際と深い学識を備え、交響曲、室内楽、歌曲、ピアノ曲など様々なジャンルを手がけましたが、作品の数が多すぎることが却って彼らの作曲家としての本領がどの辺りにあるのかを見極めるのを難しくしています。ヒラーにも当てはまるこの肥沃な創造力は、彼がワイマールで師事したフンメル譲りの才能なのかもしれません。今回は、著者のマルモンテルロッシーニのサロンでヒラーと過ごした回想に続き ヒラーの作品に対する独自の見解が述べられます。

リース

 ヒラーは、ケルンに居住を定めたとき、愛し、忘れえぬ想い出と固く結ばれた友情を残したフランスに、パリに、別れを告げてはいなかった。1853年、55年と1870年の戦争1の前の少しの期間、筆者はマイアベーアが「ジュピター、ロッシーニ」と呼んだ人物[ロッシーニ]の家で何度もヒラーに会う喜びを得た2。「ジュピター・ロッシーニ」とは高みから降りてくるのを楽しみとするオリンポス山の神のことで、ロッシーニは若い一派の代表者たち、つまり自称3流のピアニストで私の音楽院のクラスの受講者たちとともに人間の姿で現れるのだった。プランテ、ディエメール、ドラエー、ラヴィニャック3、そして私の息子4は、彼の肥沃なペンから漏れ出しピアノだけのために書き留められた小さな傑作の数々を代わる代わる演奏した。そこでは《悪夢le Cauchemar》、《乞食たちles Mendiants》、《未来の前奏曲Prélude de l’avenir》、そのほか、天才的な大家の沢山のおどけた作品が弾かれたが、彼は天才の刻印を小曲に大曲にもはっきりと残していた。
 権威あるというよりも厳格な音楽家たちは、ヒラーが旋律を凝りすぎていて独創的というよりも気まぐれで、十分に定まった様式、真に個性的な作風を持っていないとして非難している。筆者にはこうした判断がとても公正な判断であるとは思えない。筆者からすれば、カンタータ、詩篇曲、オラトリオ、交響曲、序曲といったヒラーの合唱作品、管弦楽作品、室内楽とソナタは、大きな美点と強い個性を持った作品である。これらの作品には大家のエネルギッシュな気質が感じられるが、それを感じさせるのは着想の選択ももとより、見事な仕上がりと主要な楽想に与えられたバランスのよい展開である。
 彼のオペラと劇作品において、ヒラーは常に同様の優位に達することはなく、彼はかくしていっそう多くの交響曲作曲家と運命を共にしたのである。しかし、彼は玄人からしか好意的な評価を受けず、劇場で成功を得られなかったにもかかわらず、大変熟練した声楽書法、アンサンブルについての完璧な知識と真の舞台的感性を認めないわけにはいかない。

ヒラーの作品は相当の数に上り、たいへん多様性に富む。3つのグランド・オペラ、4つのオラトリオ、複数の序曲、合唱曲、カンタータ―これらの高尚な様式の作品は彼のしなやかな才能によって、彼の憧憬が理想的に高まる様をはっきり示すものだ。これらの作品のまちまちな評価は、作品の価値とはまだ釣り合っていない。評判や成功というものはしばしば遅れて来るもので、新たな道を拓いた大家たちにとって公正な評価は、しばしば死の高揚の中にしか訪れないものである。

  1. 1870年にフランスがスペインにおけるプロシアの勢力拡大を牽制したがきっかけとなって勃発した普仏戦争。フランスは敗北し、ナポレオン三世は捕虜となり第2帝政は崩壊した。
  2. ロッシーニは1846年にイタリアからパリに戻ったおり、サロンを開いて、アントン・ルービンシテイン、ヒラー、マルモンテルなど著名なピアニスト兼作曲家やマチアス、ディエメール、プランテといった若いピアニストたちを招いて激励していた。
  3. アントナン・マルモンテルAntonin-Emile-Louis CORBAZ MARMONTEL(1850~1907): ピアニスト兼作曲家。著者であるアントワーヌ・マルモンテルの弟子で、1869年にピアノ科で1等賞を取った後、師の養子に入った。和声・実践伴奏クラスで1889年に1等賞をとった後、オペラ座で合唱のコレペティトゥールを務めた。1901年にパリ音楽院女子クラスの教授となる。ピアニストのマルグリット・ロンは学習時代、彼の門弟だった。
  4. ラヴィニャックAlexandre-Jean-Albert LAVIGNAC(1846~1916): ピアニスト兼作曲家。パリ音楽院でマルモンテルにピアノを師事し1861年に1等賞、和声・実践伴奏科で1863年に1等賞、対位法・フーガクラスで1864年に1等賞、最後にオルガンのクラスで1865年に2等賞を得た才人だった。卒業後パリ音楽院で和声を教え、ドビュッシーも彼の指導を受けた。ヴァネリアンでもあり彼の著した『バイロイトへの音楽旅行』(1897)はメシアンの時代まで読み継がれた。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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