19世紀ピアニスト列伝

ルイ・アダン 第1回:フランス・ピアノ教育の父

2015/12/08
ルイ・アダン 第1回:フランス・ピアノ教育の父

 1758年に生まれ1848年まで、90年間を生きたフランス・ピアノ界の長老ルイ・アダンは、パリ音楽院草創期から40年以上に亘りパリ音楽院で教鞭をとった伝説的なピアノ教授です。彼の生きた約一世紀の間にモーツァルトクレメンティシューベルトベートーヴェンメンデルスゾーンショパンの人生の殆どが収まります。1805年に出版された彼の《ピアノ・メソッド》は、クラヴサンからピアノへと鍵盤楽器が移行するヨーロッパ社会にあって、画期的なピアノ教本としてパリ音楽院で公式に採用されたばかりか、各国で翻訳されました。アダンの名は国際的に知られ、ベートーヴェンは、その有名な《クロイツェル・ソナタ》の献呈先を当初ルイ・アダンにしようかと考えたほどでした。

今回は、伝記的な部分に先立ついわばイントロダクションです。ここでは、「完全な教師」の持つべき資質について様々な条件が挙げられ、それをすべて併せ持った人物としてアダンに賛辞が贈られます。

アダン
図:ルイ・アダンの肖像
(BnF, Gallicaより転載)

ルイ・アダンは、著名なピアニストたちの中に姿を見せるに相応しい人物である。第一級――創造者、偉大な流派の長に匹敵するほど――ではないにせよ、少なくともその合理的で理路整然とした教育がフランス芸術の数々の進歩に好ましい影響を及ぼした教師たちの名誉ある地位、とりわけ興味深いカテゴリーに、しかるべく位置づけられる人物である。同時代の目からみればそれは慎ましい肩書きだったが、その価値は時を追うごとに大きくなり、歴史的にもっとも信頼のおける推薦状となり、長く続く名声のしるしとなっている。教授たちの使命を過大に賞揚しようというのではないが、その使命はヴィルトゥオーゾたちが趣味の完成に及ぼす作用をはるかに超えている。正しい感情をもたずに、ときには得られた効果、とくに効果の原因をはっきりと意識することすらしないのに、技巧に長けたヴィルトゥオーゾとなり、魅了し、目をくらませたりすることがある。あまりに頻繁に見られるこうした事柄は、教師とは相容れない素質である。大部分の著名なピアニストたち――少なくとも死後もその名が残り、後世の人々にいわば選ばれるピアニストたち――はすぐれた作曲家であり、熟練の教師だった。だが、ある人数の大ヴィルトゥオーゾたちは、純粋な[ピアノ演奏の]専門家であり続け、教育には目立った適正をもたなかった。

こうした場違いな例外が、芸術史上の流星と同数の多くの人物、つまり強い光を放つが孤立した同数の点を作り出している。これらの例外があるからこそ、卓越した教育に不可欠の美点を何から何まで併せ持つことができた完全な芸術家たちの記憶はいっそう貴重なものとなるのだ。それらの美点とは次のようなものだ。多岐に亘る学識、たくさんの多様な問題、つまり、いかにして音が抑揚を与えられ導かれうるのかを知るのに必要な歌に関する基礎知識、教えられる作品の分析に必要とされる和声、[楽譜に]記されたニュアンス[強弱]についての説明、どの旋律ないし和声構成諸音がより優位なのか、そして音楽の語りのなかでそれらがどういった重要性と価値をもつのか、その理由を説き明かすこと。そして、教師が実例を規則と結びつけるのに必要なヴィルトゥオーゾとしての美点、教師が粘り強いレッスンの仕事の中に、真なる使命――それは、その目的によって高貴なものとなる――を見るのに必要な適正という美点。ルイ・アダンを措いていかなる教師も、こうした類稀な内なる才能、及び[後験的に]獲得された美質の総体を完全には体現していなかった。愛しい想い出、有益な伝統、苦労してつけられた、それでいて深い道筋、こうしたことを、かの教育の長老は自らの背後に残したのだ。それは華々しく喝采を浴びるがやがて忘れられてしまう「純然たる」ヴィルトッゥオーゾたちの名声のつかの間の輝きに比べれば、その揺ぎ無い豊かさを評価するに相応しい栄光の遺産である。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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