19世紀ピアニスト列伝

ムツィオ・クレメンティ 第2回 勤勉な学習時代と上流社会での生活

2013/04/02
勤勉な学習時代と上流社会での生活
ムツィオ・クレメンティ

今日はマルモンテルによる音楽家列伝は第5章「ムツィオ・クレメンティ」第二回。イタリアで才能を開花させたクレメンティの演奏はイギリスの裕福な愛好家ベックフォード卿の関心を惹きつけます。ベックフォード卿は10代半ばのクレメンティの世話を引き受け、イギリスに連れて帰りました。今回は、ベックフォード家での熱心な勉強と上流階級での生活について記述した段落です。

特別な土地に持ち込まれたいくらかの稀少植物のように、クレメンティの素質は優しさと献身的な心遣いに満ちたこの新しい生活の暖かな輝きの中で花開いた。旋律作家のセンスを持つクレメンティは大家の作品を絶えず勉強したおかげでイタリア的な天才を彩り豊かで力強いドイツ芸術の和声と結びつけることができた。J.S.バッハヘンデルスカルラッティは彼のお気に入りの作曲家で、彼らの音楽をクレメンティは毎日熱心に勉強した。この熱意は老年期になっても全く変わることがなかった。彼の課題に対する正確さと合理的なスケジュールたるやたいへんなもので、社会的な義務をこなすために自分の日課が妨げられてしまう時間のために追加の勉強時間を設け、これを自らの義務としていたほどだった。彼は同時に文学的教養への配慮も怠らず、任意に繰り返し本を読み、これが中学校教育の代わりとなった。

このように、ベックフォード卿、全く家父長的な家族生活、貴族階級とのかかわりのおかげで、クレメンティは一人前の紳士となり、同時にヴィトゥオジティの極みに到達した。いかなる芸術家も、クレメンティほどにはあの驚くべき両手の均質性、明瞭で磨き上げられたフーガ演奏の技法と巧みに細部を際立たせる技法を持ち合わせてはいなかった。この若き巨匠は恐れず、さもなければためらうことなく、作曲家、そしてヴィルトゥオーゾの闘士溢れる生活に入ることができた。

今の世代に属する芸術家がクレメンティの演奏を聴く幸運に浴することは殆どなかった。それでも、私は何人もの先輩たちからこの傑出した対価の演奏の美点について情報を得ることができた。正確で規則正しい彼の驚くべきメカ二スムに基づくと、手は動くことがなかった。しなやかで敏捷で、独立し、比類なきまでに均質な指だけが、鍵盤から甘美な魅力を引き出した。バッハヘンデル、マルティーニ、マルチェッロ、スカルラッティの作品を、これほど全く理想的に演奏するものは他になかった。彼の演奏の明確さは例外的で、多様なニュアンスによってフーガ様式で書かれた美しい数々の作品の細部は、この上なく繊細な意図に従って余すところなく照らし出された。クレメンティの庇護を受けた二人の門弟ジョン・フィールドクラーマーの演奏を私はしばしば聴いたが、いずれもバッハのフーガを師と同様に細部まで描き出していた。それぞれの異なる声部はいずれも音楽の語り口の中で重要性や面白味に対応した響きやアクセント、音色を持っていた。

まさに厳格な様式を深く掘り下げて研究したことで、クレメンティは、彼が大家中の大家のゆえんたる、あの指の独立、完全な均質性、レガートの凝縮された、心地よく響く演奏を我が物とする術を知ったのだ。創意溢れ天才も兼ね備えた人物、クレメンティは、彼が模範とした大作曲家についての個人的な知識からスコラ的な様式1を備えた豊かな個性を引き出すことが出来た。エマヌエル・バッハと同様に、クレメンティによってソナタ形式の枠組みは拡大された。表情豊かで声楽的な旋律的要素は彼の多くの作品のなかで形になった。ついに、クレメンティは過去と現代の芸術を結び付けて彼自身がエコールの長となったのだ。

  1. フーガやカノンなどの古典的作曲書法を指す。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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