19世紀ピアニスト列伝

フェルディナント・ヒラー 第3回:室内楽作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者

2015/06/15
フェルディナント・ヒラー 第3回:
室内楽作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者

 ヒラーは師フンメルのように、音楽家としてあらゆるジャンルで一流の腕をもつ才人でした。著者マルモンテルは、第1段落で室内楽(当時は「協奏的な」作品とも呼ばれていました)作曲家、即興演奏家、室内楽奏者としての類稀な力量について語っています。室内楽の既述に多くの紙面が割かれているのは、それまでパリでは上演されてこなかったドイツの室内楽を専門に演奏する団体が盛んに活動するようになった背景があります。ヒラーはこの潮流の中で、自国の音楽をパリでも紹介したのでした。
 第2段落は再び伝記に話を戻し、ドイツ(ライプツィヒ、デユッセルドルフ、ケルン等)、イタリア(ローマ)での獅子奮迅の活動が特記されます。

リース

ヒラーが大変に優越していることは、協奏的な作品にはっきりと示されている。これらは非常に多様なレパートリーをもつ、いわゆる室内楽のことで、芸術家にとっては無尽蔵の宝を含んでいる。ヒラーは頭の中にも指の下にも、あらゆる大家の見本を持っていた。彼の膨大な学識に似つかわしいのは、彼の類稀な純真さ―それは目立とうとしたりいかさまを働いたりするこの時代にあっては類稀な美質である―であった。私はヒラーが幾度も即興演奏したことも憶えている。私ほどの齢の音楽家で、私と同じように、1832年から1840年にかけてプレイエルの旧社屋のサロンでバイヨ1が主催していた室内楽演奏会に立ち会うすばらしい機会に恵まれた者は誰一人忘れることができないだろう。この偉大な芸術家が、友人や生徒、ヴィダル2、ソゼ3、ノルブラン(父)4、ヴァスラン5といったライヴァルたちの熱心な協力を得て、協奏的な傑作を完璧に演奏したのかを!フェルディナント・ヒラーはこれらの見事な作品の演奏に何度も参加した。節度のある純粋な彼の様式の表現は、バイヨを精神的支柱、霊感あふれる詩人としたこの四重奏のアンサンブルに根ざしている。だが、筆者がこの過去に贈る賛辞は、今日もその正当性が失われるべきものではない。すばらしい伝統が、いくつも伝えられている。もっぱら協奏的な芸術だけに捧げられた崇拝は、以前よりも多くの信奉者を獲得していることも特記しておこう。
 多くの四重奏協会は、聴衆に様々な楽派、様々な時代の作品に初めて触れてもらう必要があると思っていた。ベートーヴェンシューベルトシューマンの後期作品は、今日ではすばらしい演奏家を獲得した。これらの演奏家は、まだ殆ど知られていないものの、ディレッタントたちが高く評価しているこれらの作品の普及に積極的に尽力している。アラール6、モラン7、アルマンゴー8、マサール9、ダンクラ10、ソゼ、マルシック11、レオナール12、シヴォリ13、フランコーム14、ジャカール15、ラボー16、ルブック17、プランテ18、ディエメール19、フィッソ20、ドラエー21、その他多くの音楽家たちに加えてもちろん、サン=サーンス、ルービンシテイン22、リッテール23、ヤエル24等の音楽家たちは、それぞれの技芸とヴィルトゥオジティを傑出した先達の範例に捧げ、先達に倣って室内楽の熱烈な普及者となった。
 1836年、ヒラーはフランスを離れて生まれ故郷に帰り、人々に知られるようになっていた声楽のアカデミーの指導者を務めた。翌年、イタリア旅行の際にミラノで自作のオペラ《ロミルダ》を上演させた。ライプツィヒに戻ると、彼は大オラトリオ《イェルサレムの破壊》を上演し、熱狂を巻き起こした。壮大な様式で書かれた見事な大作はドイツの全ての主要都市で上演され、メンデルスゾーンの聖書に取材した宗教作品と並んで評価された。2度目のイタリア旅行の折、ヒラーはフィレンツェで結婚し、しばらくローマに滞在した。そこで彼は博学のバイーニ神父25と親交をもった。フェティスによれば、バイーニ神父は彼は古い楽派の宗教様式に精通していた。彼はようやく長旅をやめ、2年間、ライプツィヒとデュッセルドルフで合唱・器楽協会の指導にあたり、次いでデュッセルドルフの音楽アカデミーの指揮者となった26
 1851年、ヒラーはケルンに居を定めた。ここで彼はカペルマイスターに召還され、音楽院を組織し、その陣頭にたった27
 ヒラーは、その名声と比類ない知識、深い学識によって、この任務を成功に導くのに不可欠な資質を何から何まで備えていたのである。さらに、彼は作曲と合奏の上級クラス、彼が創設した学校の経営に携わりながら、自身のもとに経験豊かな教師、熟練のヴィルトゥオーソたち集めることができた28

ヒラーが音楽芸術のあらゆる分野の様々な知識に加えて指揮者という類稀な手腕をも兼ね備えていたことも述べておこう29。彼はその学識、管弦楽法についての完全無欠の造詣、民衆の大合唱団から特別な演奏効果を得る技術、非の打ち所なき趣味、冷静な精神によって、彼は指揮者として一線を画していた。彼はまた、ボン、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヒェン、デュッセルドルフ、ケルン等、あらゆる大規模な音楽祭の統括者を任された。

  1. バイヨPierre BAILLOT(1771~1842): フランスのヴァイオリニスト、教育者、作曲科。ローマとパリで学び、1795年、創設されたばかりのパリ音楽院で、ローマに滞在していたピエール・ロード教授の代行を務め、99年から教授になった。1814年から40年にわたり、バイヨは弦楽四重奏の予約制演奏会を主催し、数々の作品を初演した。パリ音楽院演奏協会のコンサートではベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》イ長調をパリ初演(1828年)、翌年には《弦楽四重奏》第14番の初演も行っている。マルモンテルが言及しているのはこの一連のバイヨの室内楽への貢献の一コマである。
  2. ヴィダルAntoine VIDAL(1820~1891):ルーアン出身のチェリスト、著述家。楽器研究に専念し、1876年から78年に3巻に亘る『弦楽器、室内楽の楽器目録付』を出版した。
  3. ソゼEugène SAUZAY(1809~1901) : パリ出身のヴァイオリン、ヴィオラ奏者、作曲カ。パリ音楽院でゲランGUERINとバイヨに学び1827年に1等賞、A. レイハのクラスで対位法・フーガを学ぶ。彼はヴァイオリンを弾いた画家アングルの師でもある。彼はバイヨの娘と結婚した。バイヨの先導する四重奏団にも加わり、1837年から1840年までユランUrhanに代わってヴィオラを弾いた。1860年から92年までパリ音楽院教授。
  4. ノルブラン(父)Louis NORBLIN(1781~1854):ワルシャワ生まれのフランスのチェリスト。パリ音楽院に学び1803年に1等賞を得て卒業し、オーケストラでの演奏団員の職を経て1826年から46年までパリ音楽院教授を務めた。バイヨとは親しく、1816年から40年にかけてバイヨの室内楽コンサートでの中心的人物として活躍した。息子のエミールもパリ音楽院で1等賞を得てチェリスト、教育者として活動した。
  5. ヴァスランOlive-Charlier VASLIN (1794~1889): パリ音楽院出身のチェロ奏者、教育者。1810年に一等賞を得て卒業、1827年から60年にかけて音楽院で教授を務めた。生徒には有能なチェリストでもあったオッフェンバックがいる。
  6. アラールDelphin ALARD(1851~1888): フランス、バスク地方の街バイヨンヌ出身のヴァイオリニスト、音楽院教授、作曲家。パリ音楽院でアブネックに学び、優れた才能によりパガニーニの称賛を受けた。1837年にチェリストのシュヴィヤール、ダンクラらと四重奏団を結成、10年後にはフランコームと同様の演奏団体を立ち上げた。室内楽、ヴァイオリンのための古典的作品のエディション編纂に尽力し、演奏会ではハイドン、モーツルト、ベートーヴェンなどドイツ、オーストリアのレパートリーの普及に尽力した。
  7. モランJean-Pierre MAURIN(1822~1894):アヴィニョン出身のヴァイオリニスト、作曲家、教育者。パリ音楽院でゲランとバイヨ、アブネックに師事し、1843年に1等賞を得て卒業。1875年に母校の教授となった。1852年にベートーヴェン後期四重奏曲演奏協会を結成し、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューベルト、シューマンらドイツのレパートリーを積極的に演奏した。
  8. アルマンゴーJules ARMINGAUD(1820~1900): バイヨンヌ出身でアラールとは同郷にあたる。1839年にパリに来てパリ音楽院に入学することを試みるが、すでに上達していたため入学を拒まれ先輩のアラールに学ぶ。1847年に結成されたアラールとフランコームを中心に結成された四重奏団では第2ヴァイオリンを務めた。56年にはチェリストのジャカールJacquard、作曲家、ヴィオラ奏者のラロEdouard LALOたちと四重奏団を結成、これは72年に古典音楽協会となり、同時代のフランスの作曲家やドイツ、オーストリアの古典的作品の普及に努めた。
  9. マサールLambert MASSART (1811~1892) : ベルギー生まれのヴァイオリニスト兼作曲家。パリに来て彼はクロイツェルにヴァイオリンを、作曲理論をピアノ教授ヅィメルマンとフェティスに学んだ。1841年にリストとベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」を演奏し、比類なき名手として称賛を浴びた。彼はまた卓越したピアニスト、アグラエ・マッソン嬢(後に音楽院ピアノ科教授となる)と結婚した。1843年から1890年にかけてパリ音楽院で教鞭を取り、パリ音楽院で教鞭を取り、約半世紀に亘り優れた弟子を育てた。
  10. ダンクラCharles DANCLA (1817~1907): フランスのヴァイオリニスト兼作曲家。パリ音楽院でゲランとバイヨに学び、バイヨのクラスで一等賞を得て卒業した。1838年にはヴァイオリニスト、チェリストだった2人弟たちと室内楽活動を行っている。音楽院では作曲も学びローマ賞コンクールで2等賞得ている。1855年からヴァイオリン科の教授となり1892年まで教えた。
  11. マルシックMartin MARSICK(1848~1924): ベルギー出身のヴァイオリニスト、差曲家、教育者。リエージュ音楽院に学び、次いでブリュッセルでレオナールの指導をうけた。1868年にパリ音楽院でマサールが担任するクラスに入り翌年ヴァイオリン科1等賞をえる。1870年から71年にかけてヨアヒムのもとで最終的な学習を終えた。パリではベートーヴェン、メンデルスゾーンといったドイツの古典的レパートリーに加え、H. ヴュータン、ブルック、ラロら同時代人の作品も盛んに演奏した。1882年から1900年までパリ音楽院教授を務めた。
  12. レオナールHubert LEONARD (1819~1890):ベルギー出身のヴァイオリン奏者。マルシックの師。リエージュで学んだ後、1836年から39年までパリ音楽院でアブネックに師事した。パリの複数の劇場オーケストラで演奏したのち、ヨーロッパ各地を旅行した。パリではメンデルスゾーンの協奏曲、ベートーヴェン、サン=サーンス、フランク、フォーレの作品を演奏し、またバッハのソナタとパルティータ、コレッリやタルティーニなどイタリア・バロックのレパートリーを編集・出版した。
  13. シヴォリCamillo SIVORI(1815~1894):フランスのヴァイオリニスト兼作曲家。パガニーニの弟子。1845年にロンドンでベートーヴェン弦楽四重奏し、この都市で活動した後パリに戻り1880年代まで演奏活動を続けた。その間、室内楽活動としては1856年にパリで室内楽協会を結成し、A.フマガッリ、リッテール、F. リスト、A. ジャエルとったピアニスト兼作曲家たちと共演した。
  14. フランコームAuguste FRANCOMME(1808-1884):チェリスト、作曲家、パリ音楽院教授。パリ音楽院に学び1825年に1等賞を得て卒業。劇場オーケストラや1828年に創設されたパリ音楽院演奏協会のオーケストラで活動した。アラールとともに室内楽活動を展開し、1847年に彼と結成した室内楽団はその長い活動期間中にピアニストにCh. アレ、アルカン、プランテ、ディエメール、フィッソら名手を向かえ有名になった。彼はショパン、画家のドラクロワらの文化人サークルの一員で、2人とは親しい間柄だった。
  15. ジャカールLéon JACQUART(1826-1886):フランスのチェリスト、作曲家。パリ音楽院に学び1844年に一等賞を得た。1866年にパリ音楽院演奏協会団員としてオーケストラの一翼を担った。室内楽活動では1856年にアルマンゴー、ラロらと結成した四重奏団、72年からは古典音楽協会(同時代の作品も演奏)で演奏した。1878年からは教授として音楽院でチェロを教える。
  16. ラボーHippolyte RABEAU(1839~1900):フランスのチェリスト、作曲家。パリ音楽院でフランコームに師事、1861年に1等賞を得る。1859年にオペラ座オーケストラの団員となり、1866年から主席奏者、1868年からパリ音楽院演奏協会のオーケストラ団員となる。彼は60年代から70年代にかけていくつもの四重奏団で演奏し、優れた室内楽奏者として活動した。
  17. ルブックCharles LEBOUC(1822~1893):ブザンソン出身のチェロ奏者、作曲家。1842年に音楽院に入り1843年に二等賞を得て、作曲の勉強に打ち込み1844年に対位法・フーガクラスで次席を得た。1849年にパリ音楽院演奏協会のオーケストラ団員となったが、その外ではとりわけ室内楽活動に力を注いだ。著名な歌手アドルフ・ヌーリAdolf NOURRITと結婚し、妻とも毎週マチネを催し、後に毎月行われる人気の声楽と器楽のマチネとなった。ヴィヴィエンヌ通りに位置する彼のサロンでは1853年から室内楽の講座が開かれていた。当時、室内楽の領域では殆ど知られていなかったバッハやクープランのレパートリーを取り入れたのも彼の功績である。彼は芸術家団体「アポロンの子どもたち」協会の会長でサン=サーンスとも親しく1886年に彼の自宅で《動物の謝肉祭》が内輪で初演された。
  18. プランテ : Francis PLANTÉ(1839~1934) : フランスのピアニスト。彼は作曲家を兼ねない職業ピアニストとしての歩んだ音楽家としては初期の例である。1850年に入学から一年たらずのうちにマルモンテルのクラスで一等賞を得る神童だった。ロッシーニ、リストはこの少年プランテに惜しみない支援の手を差し伸べている。1854年から60年にかけてプランテはアルカンがピアノを弾いていたアラール、フランコームの三重奏団に加わりピアノを担当した。ショパンが生きていた時代から1934年、95歳まで存命した稀有な演奏家で、69歳の時には録音を残している。
  19. ディエメールLouis DIEMER(1843~1919):フランスのピアニスト兼作曲家、ピアノ教授。パリ音楽院でマルモンテルに学び1856年に一等賞を得る。その後、和声、対位法・フーガでも一等賞を得、オルガンでも二等賞を獲得、輝かしい学歴とともにパリの音楽界にデビューする。1861年頃からプランテに代わってアラール、フランコームのトリオでピアノを担当した。1887年からはマルモンテルに代わってパリ音楽院ピアノ科の男子クラスの一つを受け持つことになる。
  20. フィッソHenry FISSOT(1843-1896):フランスのピアニスト兼作曲家。パリ音楽院に学び、ソルフェージュ(1854)ピアノ(1855)、和声・伴奏(1857)オルガン(1860)、対位法・フーガ(1860)、のクラスで次々に一等賞を獲得した才人である。1860年代から70年代にかけてパッシーとクリニアンクールでオルガニストを務めたのち、1874年からサ=ヴァンサン=ド=ポール教会の正オルガニストを務めた。1887年に短期的に女子クラス、次いで同年の内に男子クラス教授として教鞭をとった。
  21. ドラエー:Léon-Jules-Jean-Alexandre Lepot DELAHYE (1844-1896):フランスのピアニスト兼作曲家。子供の時分より才能に恵まれ、11歳の時に最初の作品をパリで出版している。パリ音楽院に学び、1861年に和声・実践伴奏クラスで一等賞、1863年にピアノ(マルモンテルのクラス)で一等賞、対位法・フーガのクラスで次席を得ている。卒業後、彼はオペラ座の声楽のコレペティトゥールの職を得、またピアニスト、作曲家(1878年にオペラコミック『ペピタ』を出版)としても活動していた。イタリアからパリに戻っていたロッシーニのサロンにも出入りし、ここで先輩のディエメール、プランテ、それにフランツ・リストと会っている。1891年、パリ音楽院で和声・伴奏クラスの教授となった。
  22. ルービンシテインAnton RUBINSTEIN(1829~1894):ロシアでヴィロインクVilloingに師事し、早くも1840年から41年にかけてパリを訪れ41年にリサイタルを開いている。この時、20歳ばかり年上のショパン、リストと知己を得た。1857年にはニース、パリ、68年にはリヨン、マルセイユ、ニース、ボルドーで演奏し注目を集めた。68年の訪仏ではサン=サーンスが彼のために作曲した《ピアノ協奏曲》作品22を初演している(ピアノを担当したか、指揮を担当したかについては諸説ある)。
  23. リッテールThéodore Ritter(1840~1886):ナント生まれのピアニスト兼作曲家。裕福な音楽愛好家トゥッサン・ブネToussaint Bennetと歌手のアリス・ドジャンの間に設けられた非嫡出子で、音楽的な環境の中で成長した。リストは幼いリッテールの教育に手を貸した。パリで唯一のベルリオーズの弟子となり、ベルリオーズはリッテールにカンタータ《キリストの幼時》とオペラ《ロミオとジュリエット》のピアノ・リダクションの制作を任せた。1857年から59年にかけて、父が総説したベートーヴェン学校で教鞭を撮り、60年代初期には父が経済的支援を行ったベートーヴェン後期四重協会で演奏した。63年にはラムルー四重奏協会の演奏会でピアニストとして演奏した。作曲家としてのリッテールの作品は幅広く、ピアノ作品(一曲のソナタを含む)、弦楽四重奏、カンタータ、宗教作品、トランスクリプションが含まれる。
  24. ヤエルAlfred JAËLL (1832~1882):トリエステ生まれのオーストリアのピアニスト兼作曲家。ヴァイオリンとピアノの初歩を学んだのち、ウィーンで1844年にモシェレスの弟子となる。演奏旅行でヨーロッパ、アメリカ各地を回り、1866年にパリ音楽院出身のマリー・トロートマン(1846~1925)と結婚。夫人はモシェレスを敬愛したアンリ・エルツの弟子で、ピアニストとして活動しサン=サーンスら著名な作曲家兼ピアニストの信頼も厚かった。二人は結婚を期にパリに移り、活動を共にした。ブラームス、シューマン、ショパンら19世紀のピアニスト兼作曲家の普及に尽力した。
  25. バイーニ神父Giuseppe BAINI (1775~1844):ローマの音楽研究者、作曲家。ルネサンス時代の作曲家パレストリーナの研究家として名高く、1841年から46年にかけて7巻に分けて出版した『宗教音楽集』にパレストリーナ作品を編集して出版した。パレストリーナの伝記(1828)、文献学的研究を初めとした彼の研究は19世紀の音楽家たちに純粋対位法の伝統の復古へと駆り立て、各地で起こるチェリーチア主義と呼ばれる運動に繋がった。
  26. 彼がケルンに去るとき、後をシューマンに任せた。シューマンはヒラーに《ピアノ協奏曲》イ短調を献呈している。
  27. ケルン音楽院のこと。1845年にライン音楽学校だった機関が1850年、ヒラーの下でケルン音楽院。
  28. 後にライプツィヒ音楽院院長となるライネッケもCarl REINECKE(1824~1910)もその一人である。
  29. [原文脚注] 筆者はパリのイタリア座でその腕前に判断を下すことができた。彼はある冬、この劇場に招かれて、サル・ヴァンタドールの管弦楽団を指揮した。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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