「チェルニー30番」再考

22.パリで出版されたチェルニー練習曲―3つのタイプ:タイプ②その3

2014/09/24
第二部「30番」再考
22.パリで出版されたチェルニー練習曲―3つのタイプ:タイプ②その3
タイプ②「練習曲」と「訓練課題」の中間的なタイプで、全体として様式よりはメカニックな訓練に重点を置くもの。

前回はチェルニーがパリで出版した練習曲の3タイプのうち、タイプ②の特徴を形式という観点から見てみました。タイプ②は「全体として様式よりはメカニックな訓練に重点を置く」タイプですが、中には様表現式を重視する曲もあります。早いテンポの曲は特定の音型や特定の指の動きに慣れさせることを目的とするものが多いですが、タイプ②のうち、様式重視の曲はテンポのゆったりとした曲に見られます。今回は、数は少ないですが、それらの特徴を前回同様2つの曲集《進歩, 25の練習曲, J.B.クラーマーの練習曲集への導入》作品749《50の能弁の練習曲》作品818から例を挙げてみてみましょう。

まずは作品749の第3番「アンダンティーノ・グラツィオーソ(優美なアンダンティーノ)」です。一見、64分音符が多いので急速な音階や分散和音を重視した練習曲に見えますが、この曲のテーマはあくまで「カンタービレ・スプレッシーヴォ」(譜例1, 赤枠)、つまり「表情豊かに歌って」です。細かい音符はあくまで即興的な装飾として扱われており、大切なのは4小節単位で巡って来る、歌うようなフレーズのまとまりを聴かせることにあります。8小節までに主題が2度提示されたのち、9小節目からはト短調、ヘ短調の借用和音も使用され、和声的にも豊かな表情のコントラストが生みだされます。その際、64分音符の急速な動きは左手に移りますが、これは両手に均等に技巧上のポイントを割振るための教師心溢れる配慮です。

更に、この曲の書法が単にピアノ曲ではなく、弦楽四重奏を想定しているということも指摘しておきましょう。最初はチェロを除く3パートで始まり、9小節目からの左手はチェロの独奏です。この曲は、最後に主題が回帰してきちんとした3部形式としてまとめられます。
次に挙げる第5番も独特のキャラクターを持っています。譜例2の冒頭には「アンダンティーノ・カンタービレ(歌うようなアンダンテ)」とあります。そしてそのすぐ下には「プレギエーラPreghiera」という馴染みのない言葉が書いてあります。これは「祈り」という意味です。

冒頭の左手の真下にある「ウナ・コルダ」にも注目しましょう。冒頭は「p」でしかも各音がピアノの一本の弦で素朴な澄んだ響きを奏でるのです。チェルニーは、練習曲に、瞑想の時に湧き上がる静かな歌を託しているのです。
ちなみに、技巧的な面から見れば、ここではショパン〈練習曲〉作品10-3(通称「別れの曲」)と同様に、右手で歌うような旋律と16分音符を同時に弾き分けることが技巧上の課題になっています。チェルニーのこの例では、「伴奏と旋律の弾き分け」それ自体はあくまで「祈り」の性格を表現するための手段として扱われていることがわかります。
最後に、《50の能弁の練習曲》作品818から一例を挙げます。この練習曲集には速いテンポの曲ばかりが収められていますが、それでもゆったりとした旋律の曲があります。譜例3は第28番 嬰ハ長調の前半部分です。テンポは「アレグロ・モデラート(中庸なアレグロ)」でテンポはやや控えめです。冒頭の楽想記号には「ドルチェ(甘美に)」、「エスプレッシーヴォ(表情豊かに)」です。

旋律はここでも4小節ずつで一つのフレーズを作っており、丁度4~5小節目で前半部分の山場が来るというきれいなアーチ型の旋律構造をしています。短い第一部ですが、その中にも起伏を与えることで表情の振れ幅も大きく多様になっているのがよくわかります。

追記

この連載では音源がない曲を多く扱っており、ぜひ音で全体を聴いてみたいと思われる方も多いことと思います。筆者も録音とともにこれらの興味深い練習曲を紹介していきたいのですが一度に録音を依頼することもできず、少しずつ録音を協力者に依頼している状況です。最終的には大部分の音源を整備する考えですので、現状はテキストと譜例のみでご理解いただければ幸いです。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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