パリ発ショパンを廻る音楽散歩

06.ピガール通り16番地(現在のジャン=バプティスト通り20番地)/ヴィルトゥオーゾの出現

2008/06/01 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 
ピガール通り16番地(現在のジャン=バプティスト通り20番地)ヴィルトゥオーゾの出現
クリックで大きい地図(別窓) シテ・ベルジェール4番地
16, rue Pigalle(20,Jean-Baptiste Pigalle)
75009 Paris
地下鉄 :2・12号線 Pigalleピガール、12号線St. Georgeサン・ジョルジュ、
12号線Torinite d'Etienne D'Orvesトリニテ下車
1841年11月から1842年9月末まで
第6回
現在のピガール通り16番地

マヨルカ島からノーアンを経て、パリに戻ったショパンとサンドはそれぞれ新しい住まいに移ります。ショパンはトロンシェ通り、サンドはピガール街のはずれの小さな庭に建つ、こじんまりした2棟から成る家屋に子供達と落ち着きました。ショパンは自宅からピガール通りのサンドの家まで一キロ程度の道のりをしばらく馬車で往復していましたが、1841年の秋には自宅のアパートをかつてのルームメイト、ヤン・マトゥシンスキに委ね、サンドの借りていた2つの家のひとつに移って一緒に暮らすようになります。

第6回
ピガール通りのプレート
サンドはこの屋敷に、当時、活躍していたあらゆる著名文化人を招き入れ、ショパンは弟子たちのレッスンに励みました。
1842年の春、結核を患っていたヤンは、ショパンとサンドの自宅に引き取られて懸命に看護されますが、ショパンの腕の中で帰らぬ人となりました。悲嘆に暮れるショパンをサンドはノアンの館で癒し、秋になると、家族4人では些か狭く感じるようになったピガールの家からスクワール・ド・オルレアンのアパートに引っ越します。

パリ市立ロマン派美術館
美術館入り口
美術館入り口
パリ市立ロマン派美術館
Musee de la Vie romantique Paris
Hotel Scheffer-Renan

75009 Paris
TEL +33 (0)1 48 74 95 38
FAX +33 (0)1 48 74 28 42
www.museums-of-paris.com/musee_fr.php?code=303
地下鉄 : 2号線Blancheブロンシュ、
2・12号線 Pigalleピガール、
12号線St. Georgeサン・ジョルジュ下車
開館時:火曜?日曜10時から18時まで
休館日:月曜・祝祭日 (見学無料)

ジョルジュ・サンドの肖像が掛けられた美術館内部の広間
ジョルジュ・サンドの肖像が掛けられた美術館内部の広間
美術館内部のアリ・シェフェールのアトリエ
美術館内部のアリ・シェフェールのアトリエ
冬の庭と名付けられたテラスでピアノを弾いているのはショパン
冬の庭と名付けられたテラスでピアノを弾いているのはショパン
アリ・シェフェールによるリストの肖像(1837)アリ・シェフェールによるショパンの肖像(1847) サンドの娘婿、彫刻家のクレサンジュによるショパンの手
(上)サンドの娘婿、彫刻家のクレサンジュによるショパンの手
(左)アリ・シェフェールによるリストの肖像(1837) (右)アリ・シェフェールによるショパンの肖像(1847)

サンドとショパンの新しい住まいからほど近い、アリ・シェフェールAry Scheffer(1819‐1896)のアトリエ住居。1830年にルイ=フィリップ王の公式画家となったシェフェールは家族と共にこの館に移り、住居の両脇にアトリエを建て、ひとつは制作用に、もうひとつは毎週金曜日に政治家や芸術家たちを招き入れるサロンとして開き、当時、ノートル・ダム・ロレット通りに住んでいたドラクロワをはじめ、ショパンやサンドを常連に招いていた。 アリ・シェフェールはこのアトリエで1837年にリスト、1847年にショパンの肖像を描く。 美術館内のガラス・ケースにはサンドの指輪や彫刻刀などの思い出の品の他、ショパンの髪の毛や石膏の手が陳列されている。


ヴィルトゥオーゾの出現

19世紀の楽器の発達に伴って出現した類稀な表現技術を持つ楽器の名手は「ヴィルトゥオーゾ」と呼ばれて時代の寵児(スター)となります。超絶技巧(ヴィルトウオジテ)という概念は古くからありましたが、彼らはそれまでオペラのスター達が長らく展開してきたような鮮やかな技巧を器楽の分野に(もたら)し、聴衆は目の眩むようなヴィルトゥオーゾたちのスリリングな演奏に熱狂し、拍手喝采しました。

中でも、イタリアのジェノヴァに生まれたヴァイオリニストのパガニーニ(1782?1840)の存在は絶対的で、1828年から1834年にかけてヨーロッパ中の舞台に登場し、その超人的な技巧で当時の音楽界に一大センセーショナルを巻き起こします。彼は技巧の無限の可能性を示し、ロマン派の音楽家たちに強烈な印象を与えました。

パガニーニのパリ・デビューは1831年の3月9日、彼が49歳の時で、パリで11回の演奏会を開いたという記録が残っています。パリでパガニーニの演奏に接したリストが大きな衝撃を受けて「ラ・カンパネラ」(PTNAピアノ事典参照)を作曲したのは有名な話ですが、パガニーニの演奏はリストの演奏スタイルと作曲技法を根底から覆しました。リストはパガニーニの演奏から作品の着想のみならず、高度な演奏技術がもたらす表現の可能性を学びました。そして、リスト自身もその後の30年代から40年代にかけ、屈指の「ヴィルトゥオーゾ」としてヨーロッパ中で伝説的な評価を受けることになります。

ショパンも(おそらく1829年に)、ワルシャワでパガニーニを聴いて「パガニーニの思い出」というピアノ曲を作曲しています。さらに、ショパンはパガニーニの無伴奏ヴァイオリン曲「24の奇想曲(カプリス)」に触発されて、「練習曲」(PTNAピアノ事典参照)の作品1025を完成し、時代の先端を行くピアニズムを確立したといわれています。

ピアノの性能の進歩は、弾き手に最大の敏捷さと反射神経が要求されるすばやいパッセージや広音域に渡る跳躍、トリル、トレモロ、グリッサンドを可能にし、聴衆は演奏の煌びやかさや圧倒されるような技巧によってピアニストの技量を測るようになります。この風潮に煽られて、彼らはピアノという楽器を自由自在に操りながらさまざまな曲芸的演奏を繰り広げ、パリはピアニストの競争の場と化し、街には凄まじいヴィルトゥオジテの嵐が吹き荒れていきました。

ショパンはこうした動きに惑わされることなく、作品から一過性のアクロバット的要素を排除し、永続し得る音楽の内的な表現へと独自の創造方向を見定めていきます。聴き手の心の琴線に触れるような深い精神性の宿る別次元の音楽?サンドとの出会いをきっかけに公開演奏の場から遠のいたのも、健康上の理由のみならず、ショパンの芸術表現に対するひとつの自己表明であったにちがいありません・・・

パリのヴィルトゥオーゾたち
パリのヴィルトゥオーゾたち
Pianistes celebres, Nicolas Maurinによるリトグラフ(1842)
上:左からローゼンハイム、デルハー,ショパン、タールベルク
下 :左からヴォルフ、ヘンゼルト、リスト


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