海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

モーツァルト国際コンクール(3) レヴィン教授が語るモーツァルトのピアノ

2011/03/04
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毎夏ザルツブルグでマスタークラスを行っているロバート・レヴィン先生。コンクール審査の2週間前にもザルツブルグでモーツァルトの誕生日(1/27)に演奏したそうです。モーツァルトの聖地とも言えるザルツブルグに対し、モーツアルト研究の第一人者としてどのような想いがあるのでしょうか。モーツァルトの住んだ家(Mozart Wohnhaus* 下写真)に展示されている本人所有のピアノや、ピリオド楽器がピアノ演奏に与える可能性等についてお伺いしました。


「これで全ての協奏曲を初演したのだ・・!」モーツァルトのピアノを弾いた感触

―モーツァルトの住んだ家にアントン・ウォルター製作によるフォルテピアノ(1780年製・オリジナル)が展示されていますが、初めて触れた時の感触はいかがでしたか。

モーツァルトのフォルテピアノを初めて見たのは、旅行でザルツブルグを訪れた時です。まだその頃はモーツァルトの生家(Mozart Geburtshaus)にありました。鍵盤はプラスチックのカバーに覆われ、鍵がかかっていました。実際に触れさせてもらうことができたのは、その次に来訪した時。実際に座ってみると、鍵盤は中央がややすり減って凹んでいるんですね。「この楽器があの偉大なピアノ協奏曲作品全てを初演したんだ・・・」と感慨深かったですね。

これまでフォルテピアノの良質な複製を弾いたことは何度もありましたが、それらと比べると、モーツァルトのピアノは鍵盤の幅が狭く、あまり深く下りず、反発も小さかったです。この楽器でピアノ協奏曲2曲(第15番K450、第26番 K537『戴冠式』)をライブ録音しました。テレビ番組用にも録音したことがありますが、私が知る限り、モーツァルトのピアノとオーケストラ共演でピアノ協奏曲が演奏されたのは、他に例がないと思います。

実はこのフォルテピアノは、今まで少なくとも2回修復されています。1805年と1930年半ばですが、その時何がなされたのかについては色々議論があります。18世紀当時のピアノにはペダルがなく、ダンパーを上げる時は膝レバーを使っていました。その左右の膝レバーで鍵盤に特別な効果を加えることができたのです。しかしある古楽器専門家は、これは1805年まではなかったと主張しています。200年たった今となっては、それがモーツァルトの生前か没後かは特定できません。この分野の専門家である私の友人がピアノメーカーに聞いたところ、膝レバーは数時間で装着できるそうです。つまり大した作業ではない。私には、モーツァルトのような作曲家が、とりわけオーケストラ作品を書く時、膝レバーなしの楽器を使い続けていたと考えるのは大変難しいのです。

一つ確かなのは、彼はピアノの音域をあまり気にしていなかったこと。1781年、5オクターブ半のピアノを持つ生徒(ヨゼファ・アウアンハンマー)がいたのですが、彼女に献呈された2台ピアノのためのソナタだけが、5オクターブ以上の音域で書かれています。

一方ベートーヴェンはどうでしょうか。彼がウィーンに来た1790年代当時、まだ5オクターブ以上の楽器は普及していませんでした。そこで多くの人が弾けるようにと、ベートーヴェンはピアノ協奏曲第1番・第2番、ピアノ・ソナタop.31-3までは5オクターブの音域(Gまで)で書いています。協奏曲第3番を書き始め出版される間に5オクターブ半のピアノ(Cまで)を入手したことにより、2か所を上のCに書き直しました。その後、協奏曲第4番は5オクターブ半で作曲され、協奏曲第5番に至っては6オクターブ(Fまで)に広がっています。しかし低音にはまだまだ満足していなかった。そこでグラーフは下のCまで音域を拡張したピアノを製作し始めました。これがベートーヴェンが実際の楽器から得られた最大の音域です。それでもベートーヴェンはまだ満足せず、ハンマークラヴィア・ソナタop.106ではさらにB♭も求め、ソナタop.101では下のFまで書き、これが間違いではないことを示唆しています。

ベートーヴェンは「何としても自分の望む音が欲しい!」と、まるで天上に頭を打ちつけながら音域の限界に挑み続け、楽器メーカーにも常に働きかけていました。それに対して、モーツァルトはまるで限界がないかのように、ある状態の中で満足していました。両者の違いは、音楽へのアプローチにも反映されています。


グラーフ製のフォルテピアノ復元へ

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Mozart Wohnhaus

ところで何年か前、モーツァルテウム財団にグラーフ製のフォルテピアノが贈られました。グラーフはシューベルトやベートーヴェンの時代に活躍し、当時随一のピアノ製作者とされていました。そのピアノはかなり傷みが酷い状態でしたが、腕のいい業者であれば修復可能と思い、館長にこう申し出ました。「私はこれまで誰よりも、モーツァルトの所有していたピアノを弾くという名誉と恩恵に預かってきました。だからそのお礼として、このグラーフ製ピアノの修復費を負担したい」と。

そして1年ほど前にオランダの業者に預けられ、昨年11月に修復が完了しました。木目が大変美しく、何といっても音色が優しくて温かい。シューベルトやメンデルスゾーン、シューマンの歌曲に相応しい音色なんです。今年7月22日マスタークラス期間中に、お披露目演奏会を開く予定です(モーツァルテウム小ホール)。

私の夏季マスタークラスでは通常スタインウェイを使いますが、ピリオド楽器も教室内に置くよう提案し、生徒たちにその感触を実感してもらいました。現代ピアノの鍵盤の反発力は平均52グラム、一方私の友人マルコム・ビルソンによれば、1800年代ウィーン製は反発力が15グラム前後だそうです。かなり違いますね。ですからピリオド楽器をいきなり弾くと色々な指の問題が出てきます。しかし本当に指のコントロールができるようになると、ピリオド楽器は実にフレキシブルで、表現力豊かになるのです。これはかけがえのない宝物ですね!ぜひ今後もモーツァルテウム財団の資産として、多くの皆さんにも触れて頂きたいと思っています。


ピリオド楽器からわかる、ベートーヴェン協奏曲第4番の解釈

―ピリオド楽器の感触や時代背景を知ることで、ピアノ演奏の表現の幅が広がりますね。

ええ。前述の通り、ベートーヴェンは常に楽器製作者に自分の希望を伝えていました。耳や頭で音楽を捉えていただけでなく、楽器の内部構造をよく理解していたということです。彼は本当のウナ・コルダを希望していました。製作が困難なため、どのメーカーも作りたがりませんでしたが。ベートーヴェンの曲を1・2・3弦で弾き分けられるピアノを使って弾いたならば、決して忘れられない演奏になります。実際私も、ジョン・エリオット・ガードナーとベートーヴェン協奏曲を録音した時、第4番のためにフォルテピアノのレプリカの特注したんです!(ハーバード大学所蔵)。

たとえば第2楽章の最後、2弦・3弦・・とピアニシモからフォルテシモにクレッシェンドし、長いトリルを経て、また3弦・2弦・1弦・・とディミヌエンドしピアニシモになる。ここは現代ピアノではできない音響です。強弱ディナーミクを変化させることはできますが、音のキャラクターを変えることはできません。1弦だけで弾くとまるでハープのようです。

多くの人が「第2楽章は物語を語っているようだ」というように、確かにソナタや舞踏曲ではなく、これは一種のレトリックです。弦が激しく鳴り響く中でピアノが入り、何かを語り出す。そして次第にピアノの音が弦の音に近づいていきます。最後はピアノがクレッシェンドしてフォルテッシモになり、大変劇的なシーンになります。フランツ・リストは「オルフェオが地獄に下り、エウリディーチェを取り戻す場面だ」と指摘し、英文学者エドワード・モーガン・フォースター(『ハワーズ・エンド』『インドへの道』等の著者)も同じようなことを述べています。

20年ほど前、アメリカの音楽学者オーウェン・ジェンダーが発表した説によれば、ベートーヴェンが協奏曲第4番を作曲していた当時、ウィーンの街角では小劇団が「オルフェオとエウリディーチェ」の芝居をしていたそうです。彼はその芝居の脚本を発見し、そのセリフと協奏曲のフレーズが呼応していると発表しました。ベートーヴェン自身が書き残したわけではないのですが、恐らくそうなのでしょう。
正真正銘のウナ・コルダで弾けるピアノでハープのような音が出せたら、ギリシア神話のような雰囲気が出ると思います。これは現代ピアノではできません。ピリオド楽器が我々の想像力を広げてくれるのです。

◎5オクターブという狭い音域から無限に広がるモーツァルトの想像力、本物のウナ・コルダから分かるベートーヴェンの意図、そしてピリオド楽器の感触と構造から分かる18-19世紀の演奏風景・・。作曲家からの伝言を伝えるかのように、大変生き生きとピリオド楽器について語って下さったレヴィン先生。昨年8月に来日された時も、クラヴィコード、チェンバロ、フォルテピアノを軽やかに演奏されました(ピティナ・ピアノフェスティバルvol.63)。現在レヴィン先生が教授を務めるハーバード大学には、特注したフォルテピアノ以外にも多くのピリオド楽器が所蔵されています。ご興味のある方はこちらへ!

取材・文◎菅野恵理子


菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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