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第9回:インタビュー「譜読みマイスターに聞く!」 第2回 久元祐子先生 後編

2017/04/26
第9回 特別インタビュー「譜読みマイスターに聞く!」
第2回 久元祐子先生・後編

前編はこちら

当時の音をめざすことは作曲家の言葉の"翻訳"
久元祐子先生
プロフィール
久元先生は、作曲当時の楽器を用いた演奏会のご開催、録音のリリースをされています。特にモーツァルトの演奏では装飾法についてもご研究されているなど、"作曲家が生きていたとき"の音を探求されていますね。

時代の空気は、必ず作品に投影されています。蝋燭の炎と月明りの中で書かれた音楽と蛍光灯の照明の中で作曲されたものとでは、光と影と色が異なることでしょう。特にピアノ曲の場合は、ほとんどの場合ピアノを弾きながら作曲しますから、その楽器が持っている美学と特徴は、そのまま曲に直結しています。楽器を知ることが音楽をアプローチする上で大きな手掛かりになると思います。モーツァルトの時代、シューベルトの時代、ベートーヴェンの時代そしてショパンの時代...それぞれの楽器からこれまで多くを教えてもらいました。

作品の書かれた時代によって「譜読み」で感じる難しさ、また取り組み方が変わることはありますか?

たとえばショパンは、愛用したプレイエルを前提として指使いやデュナーミクやペダル記号を書き込んでいます。そこにはプレイエルの柔らかな音色があり、現代のピアノで弾くときには、硬さを和らげるためのペダルを工夫したり、時間をかけて歌うようなパッサージュで使った同じ指の連続などもショパンの意図を汲みつつ現代ピアノで最大限の効果が出るよう、「翻訳作業」を行います。

他の時代の作曲家の翻訳についてもご紹介頂けますか?まずは先生が最も取り組まれているモーツァルトについてお聞かせください。

例えば、KV332の第2楽章は自筆譜では控えめな装飾、初版譜(オリジナル版・・・作曲家が生きていたときに出版された初版譜)では装飾が多めについています。繰り返すときにモーツァルトが施したであろう装飾法を知る上で大きな手掛かりになります。これら"譜読み"を通じて得る様々な情報を引き出しに入れておき、何かのときに引っ張りだして応用するのは楽しいものです。ジャズ・ピアニストは記憶にたくさんのパターンを入れておき、瞬時に鍵盤に指を走らせます。記憶の中にない音は決して出てこないのだそうです。私達クラシックの人間も即興、装飾について敏感でありたいと思います。

ベートーヴェンの作品は自筆譜などを読むと強弱やペダルなどに、現代のピアノでの演奏では戸惑ってしまうようなことが書かれていますよね。

そうですね。たとえば作品110の第3楽章に、左手のバスだけにff、右手はpのまま・・・というような指示があったりします。これはベートーヴェンが作曲当時に使っていたブロードウッド・ピアノが関係していると思うのです。ブロード・ウッドのダンパーペダルは二つに縦に割れていて、鍵盤の上半分、下半分を分けてダンパー操作をすることが可能でした。ブロードウッドだからこそできた表現と言えましょう。右手は弱音で濁らず半音階的なパッサージュを弾き、左手は力強くペダルを伴いながら和音を響かせるといった具合です。現代ピアノのダンパー・ペダルは左右分かれていませんから、当時と全く同じ響かせ方や表現は不可能です。けれどベートーヴェンが望んだ左右のバランスを知ることで、できる限りそれに近づき、音楽を立体的にしていくことは可能です。

古典派以前の作品の"譜読み"における難しさ
古典派以前の作品の"譜読み"は、いわゆる"現代音楽"等と比べれば容易だと思われる傾向がありますが、特に音数が少なく、和声も平明な作品での"譜読み"の難しさはどこにあると思いますか?

和声が平明な代わりに、フレーズ構造が複雑だったりします。そしてたった一つの音を違えれば、すべてが崩れてしまうような落とし穴があるのも特徴です。たとえば役者さんにとって台詞が多いお芝居は覚えるまで大変な労力を要することでしょう。けれど台詞が少ない芝居は簡単かと言えばそんなことはありません。先日、山田洋二監督とお話ししていましたら「台詞がないときの演技で、いい役者かどうかがわかる」とおっしゃっておられました。音符と音符の間、静寂は、感動を呼ぶ上で大きな力を持っています。「休止符でいかに語れるか」という面で、古典派は決して簡単ではなく、年齢を経て何度演奏しても毎回新しい発見があります。それが古典の深さであり素晴らしさだと思います。

また、古典派以前の作曲家になると楽譜の情報量も少ないですよね。

バッハなどは、音の高さと相対的な長さしか書かれていませんから、強弱や、速さ、表情などを奏者が読み解かなければなりません。モーツァルトも強弱記号を全く書いていない曲やごくおおざっぱにつけただけというような曲もあり、書かれたことだけを弾いても音楽になりません。こまやかな息遣いの変化、色の移ろいなど、音符から音の色を読み解き、重い音、軽い音を感じ取る必要があるのです。そして音が少なければ少ないほど、アーティキュレーションをどうつけるか、どのような音色で弾くのかが重要になってきます。

モーツァルトの作品は、音数は少ないですから、ただ"弾く"ことは容易ですが、その分書かれていないことから読み取るべきことが物凄く多いのですね。そういえばモーツァルトの作品はどんなジャンルでも、本番で弾く時にものすごく怖いという話が良くでます。これはやはり楽曲の裏にある情報量の多さに起因するのでしょうか。

メロディーメーカーの天才であったモーツァルトの旋律は、ほんの少しの匙加減を誤れば最悪の結果になり、1ミリのずれが崩壊を招きます。少ない音符、エッセンスだけでできたような音楽は、「音取り」は簡単でも、実際の演奏に際し、指が震えるほど恐ろしいことがあります。けれど、たった1音で絶望から悦びに変わるような瞬間があり、少ない音符で人間の持つ多くの感情を表すことができる音楽です。、私はそこに大きな魅力を感じています。音符から丁寧に感情を掬い取り、細やかに楽譜を読み解き、豊かな表現を目指していきたいと思っています。

"譜読み"は作曲家との"交信"
新しい時代の作曲家の作品についてはいかがでしょうか。現代作曲家の初演にも携わっていらっしゃいますね。

作曲家と直接やり取りができる現代作品は、わくわくします。そして古い時代の作品に比べると楽譜に書かれた情報量も多く、イメージも具体的に示されていることも多いと言えましょう。けれど五線譜というのはすべてを表すことができる万能の道具ではない、ということも同時に感じています。

そうなると、存命の作曲家と交流できるのはとても大きいですね。

はい。ここにはこう書いたけれど、僕の真意はこうなのだ、とか楽譜には書いていない様々なイメージを実際にお聞きすることができるのは大変にありがたいことです。

どうしても試験やコンクールでは「音を外さないように」などということに意識がいってしまったり、先生から言われたことを忠実に守ろうとするあまり、自分を枠の中に閉じ込めてしまっている人が多いですよね。

そうですね。そしていろいろな意味でクールな人が多い。「どうせ...だから」、などと、自分で自分に制限をかけてしまわず、無限の可能性を信じて、内から沸き起こるエネルギーと情熱を大切にしてほしいと思うのです。シューマンが「音楽家の座右銘」で述べている「音楽家に必要なのは熱狂である」という言葉を思いおこしてほしいと思います。

そして演奏家は、音符に書ききれなかったことを読み解き、響きとして伝える過程で作曲家との気の交流が発生すると思うのです。生きている作曲家とは直接情報共有することも可能でしょう。けれど天国にいる作曲家とも交流はできると思うのです。楽譜という暗号を読み解き、魂レベルで交信し、音楽の力に変えていく・・・・これこそが演奏家の務めだと思っています。

久元先生、貴重なお話をありがとうございました。どうしてもピアノを"弾く"ことに囚われがちですが、鍵盤から離れてどのように弾くのか、イメージや運指を明確にしてから演奏することが、とても大きな近道になるのですね。アナリーゼにとても通じる内容ですが、これをピアニストの先生から伺えたということはとても重要なことですね。

「譜読みマイスター」にはこれからもご登場いただきますが、次回は一度通常記事に戻り、"本番"に向けての譜読みについて改めて考えていきたいと思います。


長井進之介
国立音楽大学演奏学科鍵盤楽器専修(ピアノ)卒業及び音楽情報・社会コース修了を経て、同大学大学院器楽専攻(伴奏)修了。同大学院博士後期課程音楽学領域に在学中。主な研究対象はF. リストの歌曲作品。ドイツ・カールスルーエ音楽大学に協定留学。ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州財団給費奨学生。DAAD(ドイツ学術交流会)「ISK(語学研修奨学金)」奨学生。アリオン音楽財団2007年度<柴田南雄音楽評論賞>奨励賞受賞(史上最年少)。伴奏を中心とした演奏活動、複数の音楽雑誌への毎月の寄稿、CDライナーノーツの執筆及び翻訳を行う。
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