ショパン時代のピアノ教育

第36回 パリ音楽院のピアノ教育と「ヴィルトゥオーゾ」 その1

2010/12/02

 「ヴィルトゥオーゾ」という言葉は、文脈によって良い意味にも悪い意味にもなりうる。たとえば、「彼は真のヴィルトゥオーゾである。彼は作品の精神を深く理解し、それを美しい音によって表現した」といえば、「ヴィルトゥオーゾ」とは他とは明らかに一線を画す演奏能力と洞察力を合わせ持つ名手のことを指すであろう。一方で、「彼はただのヴィルトゥオーゾに過ぎない。彼の指は驚くほど素早く動き、あらゆるパッセージも難なく弾きこなすが、その演奏はいつも温かみを欠いている」などという批評文のなかでは、「ヴィルトゥオーゾ」はメカニックに長けているが、音楽的感性という点で劣っている演奏家という意味になるだろう。
 ペダルやハンマー・アクションの改良、音域の拡大、音量の増大など、ピアノが著しい変化に晒された19世紀、ピアノの演奏技巧もまた同様に急速な変化を遂げた。楽器の発達に伴い著しく演奏技術に長けたピアノの「ヴィルトゥオーゾ」たちが次々に登場するが、この時代にも「ヴィルトゥオーゾ」の意味は必ずしも一定していたわけではなく、その在り方を巡っては様々な見解が飛び交っていた。
 近代的なピアノ教育の最先端に位置していた19世紀前半のパリ音楽院においても、伝統的な教育方針と、俄然巻き起こった「ヴィルトゥオーゾ」人気の間に緊張関係が生じ、ピアノ教育の新たな指針が模索されようとしていた。今回から数回に亘り、音楽院におけるピアノ教育と卓越したピアノ演奏技巧を持つ「ヴィルトゥオーゾ」の関係に焦点を当てながら、パリ音楽院の教育者サイドがどのような方針を定めていったのかを見てくことにする。そのために、第36回の今回はまず、歴史的な背景として19世紀前半のピアノ科の成立と変遷を辿ってみよう。

                   

 フランス大革命期に設立されたパリ音楽院の器楽科は、皇帝ナポレオンが統治するフランス第一帝政期 (1804~14) にあっては軍隊と劇場への演奏者供給源として重要な役割を果たしていた。しかし、ルイ18世を国王とするブルボン朝が復活し、旧体制を志向する国の管理下に置かれると、名称が王立音楽・朗唱学校に変わり、「オペラ座に人員を供給する」(1)ことを主な役割とするよう定められた。王政復古時、1816年から21年まで音楽院を監督したF. ペルヌ(在任: 1816~1822)は、ピアノ科の目的を「本質的に伴奏者を教育すること」(2)と規定した。こうした政治的要因によって当初アダンが主張した独奏楽器としての利点(第3回「アダンの《音楽院ピアノ・メソッド》2:理想のピアニスト」参照)は充分に追究されることなく、ピアノは声楽の伴奏楽器としての地位を余儀なくされていた(3)。この状況を打開すべく、独奏楽器としてのピアノの地位向上を目指しピアノ科の再編成に着手したのは、1822年に院長に就任した作曲家ルイージ・ケルビーニ(1860~1842)だった。


伴奏楽器から独奏楽器へ

 ケルビーニは、音楽院教育委員会の再編成、重役会の創設など、根本的な教育改革の一環としてピアノ科の再編成に着手した。その目的は、以前の伴奏者育成を旨とする教育方針を変更し、独奏楽器としてのピアノの地位を確立することにあった。そのために彼が必要と考えたのは、ピアノ科の生徒数を削減し質の高いピアノ教育を行うことであった。1822年、ケルビーニは宮内大臣ラ・フェルテ男爵に宛てた手紙で、ピアノ科に73名(女子32名、男子41名)もの生徒が在籍していることに驚き、人数削減の必要性を訴えた。

ピアノには無論、それなりの有用性があり、音楽学校の教育においては他の楽器がそれぞれ地位を占めているように、固有の地位を有していなければなりません。しかし、ピアノ志望者が多いと、結果的に度を越して有害になります。というのも、音楽院を卒業し社会で教育に専念するために広がっている月並みで、しかもかなり大人数のピアニストたちは、彼ら各々にとって不利益であるのみならず―彼らが社会から集める利益はほんの僅かですが、もし彼らの数がもっと少なければ、その利益はかなりのものになるでしょう―、彼らに才能を授ける教師たちにとっても不利益になるのです[...]。というのも、金儲けにあくせくするこうした生徒によって、顧客が部分的に奪われてしまうからです。(4)

 ここには、王政復古後のペルヌ時代のピアノ教育によって低下したピアニストの質に対するケルビーニの危機感を読み取ることができる。このような背景のなかで、彼は、ピアノ科に伴奏者を育成するだけでなく、より専門的で、独立したピアノ奏者を養成する役割を与えようとしたのである。彼の提言によって、同年に女子20名(2クラス)、男子20名(2クラス)に、定員が制限され、更に1824年には男女それぞれ18名ずつ(正規の学生15名+聴講生3名)、そして27年には男女それぞれ13名ずつとなった。1826年、ピアノの「ピアノ予科」クラスが設置されたことによって、それまでのピアノのクラスは「ピアノ専科」という名のもと、高度で専門的な技術を培うクラスとして位置づけられるようになった(5)
 こうした一連の改革によって、この「ピアノ専科」は、もはや伴奏楽器ではなく、独奏楽器としてのピアノに固有な技術教育が中心となった。その一方で、和声、アッコンパニュマン(スコア・リーディングによる伴奏)の専門的な教育は、1823年に編成されたドゥルランの「和声・アッコンパニュマン」クラスに委ねられることとなった。



Constant Pierre, Le Conservatoire national de musique et de déclamation, documents historiques et administratifs recueillis ou reconstitués par l'auteur, (Paris : Imprimerie nationale, 1900), p. xiv.
Ibid., p. 306
De La Grandville, Frédéric. "Le Conservatoire de musique de Paris et le piano depuis la création de cet établissement jusqu'au milieu de XIXe siècle", Ph.D., Université de Paris-Sorbonne, 1979, p. 19 and 60.
Constant Pierre, op.cit., p. 307.
F. de La Grandville, op.cit.,p. 60. ピアノ科の名簿には、1827年から「ピアノ専科Classe speciale de piano」という名称が記されるようになった。Cf. Paris, Archives nationales, AJ37 150*, 1.

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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