ショパン時代のピアノ教育

第35回 パリ音楽院とフランツ・リスト

2010/08/06
10代前半のF.リスト
10代前半のF.リスト

 前回まで、パリ音楽院のために編纂されたピアノ教授ヅィメルマンによる教則本『ピアニスト兼作曲家の百科事典』(1840)の概要を見てきた。いまや、このメソッドが1830年代までに出版された最先端のピアノ演奏技法を体系的に整理した、パリのピアノ教育史における記念碑的な書物であることが明らかになった。だが、まだそこには考察しなければならない問題が未解決のまま残されている。この『百科事典』ではタールベルクショパンといった著名な外国人ピアニストの作品については言及されているのに、なぜリストの名はあまり登場しないのだろうか。ヅィメルマンリストを知らなかったということはあり得ない。事実、リストはショパンと同様に、ヅィメルマンのサロンに出入りしてピアノを弾いていたという証言があるからだ(連載第24回参照)。また、ヅィメルマンは、リストの多くの作品を知っていたはずである。彼は『百科事典』で次のように述べている。

第5章:「読譜について」より (Zimmerman II, p. 61)

わたしは優れて熟達した者には、以下の音楽を知らせている。私はこれが、最も初見演奏の難しい音楽と見做している。すなわち、フーガ全般、とりわけバッハのフーガ、アルカンのカプリス第三集[作品15、別名《悲愴的ジャンルの3つの断章 Trois morceaux dans le genre pathétique》]、ならびにショパンおよびリストの殆どすべての作品。(下線強調筆者)

第6章:「練習について」より (Zimmerman II, p. 65)

最も難しい練習曲はショパンタールベルクヘンゼルトリストの練習曲、アルカンのカプリス第三集である。

 このように、ヅィメルマンは熟達した生徒が取り組むべき作品の中に、リストの作品を含めている。それゆえ、彼がリストの練習曲に言及しなかったのには何らかの意図があると考えられる。今回は音楽院ピアノ科とリストの関係をみてみよう。

**********

音楽院院長ルイジ・ケルビーニ
音楽院院長ルイジ・ケルビーニ

 フランツ・リストがパリに到着したのは1823年12月、12歳の時である。彼はこのピアノ音楽の中心地で最も権威ある音楽学校、パリ音楽院に入学を申請した。ところが、22年に院長に就任したばかりのケルビーニは、リストが外国人であることを理由にこの申し入れを拒否した。とはいえ、誤解してはならないのは、この判断がケルビーニリストに対する個人的な感情によって下されたわけではないという点である。折しも1822年、リストがパリに来る前年に院長の座に就いたケルビーニは、外国人の生徒受け入れを認めないという規則を打ち出していたのである。パリ音楽院ではそれまで、たとえ外国人の生徒であっても、正規の学生、あるいは聴講生として音楽院に登録することができた(1)。しかしケルビーニは、国王がフランス国民に無料で提供している音楽教育を外国人に施すことは、音楽院に何の利益ももたらさず、非フランス人の生徒たちは音楽院で培った才能を別の地に持って行ってしまうだけだと考え、22年7月に「フランス人でない、いかなる外国の生徒にも、私が[入学許可を出すか]権利を保留する極めて稀な例外を除いては、入学は認められない」(2)という決定を下したのである。つまり、リストは運悪く、この決定の翌年にパリ音楽院へ入学を申請したことになる。仮にリストが入学を許可されていたら、彼はヅィメルマンのクラスに入っていた可能性が高い。学校への登録は出来なかったものの、リストは、パリ音楽院ピアノ科教授レイハ(1770~1836)Antoine-Joseph Reichaならびに後の作曲家教授パエールFerdinand Paer(1771~1839)について、個人的に作曲を師事することになる。
 こうした背景を考慮すれば、ヅィメルマンの『百科事典』にリストの作品が殆ど言及されていないことの一つの理由が明らかになる。音楽院は、ひとたび「音楽院の利益にならない」として退けたヴィルトゥオーゾの作品を、音楽院用のメソッドである『百科事典』に積極的に導入するのは体面的に好ましいことではなかったはずである。まして、リストは音楽院を諦めてから『百科事典』が出るまでの間に当代一のスーパースターになっていたのであるから。
 しかし、リストが『百科事典』のなかで影を潜めている理由はそれだけではなかろう。ヅィメルマンは、30年代後半に出版されたタールベルクやデーラー、ラヴィーナらの練習曲を参照し、その演奏技法を『百科事典』に取り入れているにもかかわらず、なぜか1839年に出版されたリストの《12の大練習曲》12 Grandes études(Paris, Schlesinger)(3)には言及していない。もちろん、ヅィメルマンが単に見落としていた可能性もないとは言えないが、当時の主要な練習曲を、殆ど漏らさず参照した彼が、パリで著名なピアニストの一人であるリストの名を逸するとは考えにくい。なぜ彼はリストを「無視」したのだろうか。この問いに答えるには、同時代におけるリストの練習曲構成法の特色に目を向けなければならない。
 リストの《12の大練習曲》が、ラヴィーナタールベルクと大きく異なる点は、各曲の演奏技法の多様性にある。前回までの連載で見てきた1830年代後半の練習曲の多くは、主として三部形式からなり、一つまたは二つの技巧的モチーフによって全体が構成されている。たとえば、リストの《大練習曲》よりも半年ほど早く出版されたH. ラヴィーナ《12の演奏会用練習曲》作品1 (1839) は典型的な例である。以下に示す第4番の練習曲では、右手の三度と連打の音型、左手のオクターヴと和音による音型が終始一貫している。

 ところが、リストの《12の大練習曲》では、一曲を構成する要素がしばしば多岐にわたっている。たとえば、リストの第二番、イ短調には、以下の4つの主要音型(モ チーフa, b, c, d)を見出すことができる。

譜例2 a. 両手を急速に、交互に動かす音型 冒頭
譜例
譜例3 b. オクターヴなどの音程と同音連打の組み合わせ m. 5 - m. 8
譜例
譜例4 c. 急速な三連音符 m. 9- m. 118
譜例
譜例5 d. 2オクターヴ以上の連続的跳躍 (赤い四角でマークした部分。青でマークした部分はa)、m. 14 - m. 16
譜例

 さらに、リストは、このような多様な技術的素材を用いながらも曲を統一するために、異なる素材を同時的に組み合わせるという手法をとっている。たとえば、中間部においては、以下の譜例に見られるように、冒頭動機a(赤枠内)がdのオクターヴ音型とともに現れる。

譜例6 B部において、d とともに用いられる冒頭動機 m. 38 - m. 40
譜例

 こうして、リストは多様な素材を用いながらも、楽曲を動機的に統一している(4)
 このように、一曲のなかに技巧の多様性が認められるリストの練習曲は、特定の演奏技法の習得に特化したラヴィーナ流の練習曲と本質的に構成法を異にするのである。ヅィメルマンの『百科事典』は、個別の演奏技法をシステマティックに整理することを目的としている。それゆえ、リストのような「技巧統合型」の練習曲は『百科事典』第2部で扱うには相応しくなかったはずである。
 リストは、音楽院に入学を拒否されてからというもの、型にはまった教育を軽蔑していたという(5)。彼の練習曲の構成法には、一つの音型を基に作られる学習的な練習曲に対する挑戦的意識の表れともいえるだろう。リストがもしそのような意識で《大練習曲》を書いたとすれば、ヅィメルマン・クラスのシステマティックな技術教育と本質的に相いれなくなるのも当然であり、また同時に、ヅィメルマンが『百科事典』でリストに多くは触れなかったのにもうなずくことができる。



F. de La Grandville, op.cit.,pp. 161-162.
Idem. op.cit.,p. 163. この頁には、ケルビーニが大臣に宛てた文書の複写が掲載されている。ド・ラ・グランヴィルが参照している原資料は、Paris, Archives Nationales, O31806, 2。
これはリストが1826年にパリで出版した《全長短調による28の訓練課題としてのピアノ練習曲》(Dufaut et Dubois, 1826)の改作であり、1851年に《超絶技巧練習曲集》として再び改訂出版される。
動機の操作という点からみれば、ラヴィーナよりもリストの練習曲の方が巧みといえるが、逆に、ラヴィーナのように一定の音型を用いて曲に変化を与えるにはきわめて繊細な和声感覚と転調のセンス、フレージングを彫琢する手腕がなければならない(ラヴィーナの転調は極めて計画的で入念に計算されており、フレージングは、当時としては意表を突くきわめて独創的なものである)。筆者は、ここで両者を比較してその価値の優劣が問われることを期待しない。
Frédéric de La Grandville, Le Conservatoire de musique de Paris et le piano depuis la création de cet établissement jusqu'au milieu de XIXe siècle, Ph. D., Université de Paris-Sorbonne, 1979, p. 164.

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

【GoogleAdsense】
ホーム > ショパン時代のピアノ教育 > > 第35回 パリ音楽院...