19世紀ピアニスト列伝

アレクサンドル・ゴリア第5回(最終回):ピアニストとしてのゴリアとその最期

2016/08/29
アレクサンドル・ゴリア
第5回(最終回):ピアニストとしてのゴリアとその最期

今回で、ゴリアの章は最終回になります。今回は、ピアニストとしてのゴリアの優雅な美点、それとは対照的な、彼のマッチョな風貌に焦点が当てられます。本文では語られていませんが、37歳の若さで他界したゴリアのために、彼の友人たちは曲や文章を書き、26名の音楽家・作家たちが追悼アルバムを出版しています。そこには、リリ・ブーランジェナディア・ブーランジェの父、エルネスト・ブーランジェやアンブロワーズ・トマ、アレクサンドル・デュマ(子)の名前も見られます。

アレクサンドル・ゴリア

 ゴリアは、彼と同世代のあらゆるピアニストの中でも、ピアノから出す音響の美しさにおいて際立っていた。ピアノを乱暴に扱うことなく、鍵盤に対する知的な圧力によってのみ、彼に特有の豊かな音を獲得していた。彼は、多様な技法と機転を駆使してペダルを用い、非常に効果的に、甘美さと優美さのコントラストを付けることができた。私は頻繁に、内輪[の会合]や演奏会でゴリアの演奏を聴き、彼の成功を称えた。彼が演奏するのを聴いているとき、人々は優雅で流暢で、大変趣味の良い彼のヴィルトゥオジティの魅力に包まれたが、一方で、彼の巨大な風貌を忘れる必要があった。その風貌は、才気煥発で辛らつなラヴィーナをして、ゴリアはピアニスト連隊における鼓笛隊長である、と言わしめたほどのものだったのである。

 ゴリアは、 美青年アドニスのような相貌でもなければ、肺結核を患ったピアニストたちのよううに、面長というわけでもなかった。彼は、実にその対極にあった。彼のたくましい骨格は、幅の広い肩と、輪郭のくっきりした頑健な頭を支えていた。丸みがあって、平たくふんわりとした顔立ちには、意志も気力も表れていないが、人の良さがあふれていた。自信に満ちた眼差し、誇り高そうな歩き方、軍人さながらの口ひげ――ただこれらだけが、彼の優しく、人が善すぎると言っていいほどの性格とは対照をなす、軍人風のいでたちを与えていた。

 1860年7月6日、ゴリアは脳溢血で37歳の生涯を閉じた。彼の若妻は数年後、彼の後を追う運命にあった。過酷で苦しい病が彼女を襲ったのである。あまりに早く世を去ったこの芸術家の友人たち――ゴリアは彼らを心から慕っていた――は、いつまでも彼の思い出を心にとどめた。作曲家として、彼は深い痕跡を残さなかったが、サロン用の、優雅で輝かしく、効果をねらった作品は、レパートリーにとどまることであろう。ヴィルトゥオーソとして、彼は現代の流派の名誉を保っている。芸術人生に敗れ、戦闘にむけて満足に武装できなかったゴリアは、夭逝したものの、彼は第一線で息絶えたと言うことができる。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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