19世紀ピアニスト列伝

ド・モンジュルー夫人 第1回:勝利と幸運をほしいままにした高貴な才人

2016/02/29
ド・モンジュルー夫人 第1回:没落貴族の気高きプライド

 今回から、女性ピアニスト兼作曲家、エレーヌ・ド・モンジュルー(1764~1836)に関する章が始まります。1789年のフランス大革命は、旧体制(アンシャン・レジーム)の秩序を破壊し、多くの貴族が迫害の憂き目に会いました。貴族や王党派、反革命派の政敵を容赦なくギロチンにかけたロベスピエールの恐怖政治の下、貴族出身の音楽家もまた亡命を余儀なくされました。今回の主役ド・モンジェルー夫人もまた、その動乱の渦中にありました。母国を追われながらも、音楽への愛と誇りを維持した力強い人生の物語です。

ド・モンジュルー夫人

 動乱の世紀にあって、絶えざる革命運動は、社会のあらゆる階級を転覆させ、あらゆる身分を混乱に陥れ、一団の特権的家系にしか、貴族階級の気高い印ーーつまり華麗で贅沢な無為ー―を認めない。この無為とはすなわち、正しく理解された場合、つまりその華やぎが国富と公の繁栄の主要因であり続ける場合、無為は社会的な機能である。そんな今世紀にあって、庶民ならびにブルジョワ階級から出た幾世代にもわたる芸術家たちの傍らで、旧貴族に属する名家の中に、俄然、別の世代が現れることとなった。半世紀来、こうした例はヴィルトゥオジティの世界と劇場界では頻繁に見受けられる。財産に裏切られ、思いがけず社会的地位を喪失した人々は、勇敢にも労働、研究、ペンさばき、あるいはヴィルトゥオーゾの才能によって価値と個人の肩書きを守ろうとしている。我々は、こうした貴族階級について[出自と才能の]対照表を設けて年代順に説明する必要はないが――もっともそれは教育的かつ教化的なことではあるが――、芸術を信奉する者たちの中に、生まれと才能の双方において貴族的な祖先の名前が数えられるということは言明しておきたい。

 ド・モンジュルー夫人、すなわちド・シャルネ伯爵夫人、旧姓エレーヌ・ド・ネルヴォードは恐怖政治を逃れ、外国での労働を通してその失われた財産を築きなおし、同時に、名誉ある存在の汚れなき輝きを保ち、もっぱら自力で立ち直った数多くの家系の一つに属している。それは、貴族階級によって、また、しばしばこの上なく気高いその代表者たちによって示された大いなる見本の始まりであった。将来ルイ=フィリップ王となるオルレアン公爵はスイス滞在中、生活の糧を外国の助成金にではなく、教授職に求めたことを誇りにしていた。これは後にダニエーレ・マニン1がパリでイタリア語の授業をして生計を立てるときに従うこととなる気高き伝統でもある。

 ド・モンジェルー夫人は1764年3月2日にリヨンで生まれた。彼女の一家はパリに来て定住し、若き乙女は1776年頃、ここでパリの上流社会で大変人気のあった作曲家兼ヴィルトゥオーゾ、フルマンデル2という著名な教師から音楽の素晴らしい教育とレッスンを受けた。この教師は若い生徒の教育に強い関心を持ち、彼女に、自らがカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの教えから汲み取った重要な基礎知識、優雅で正確な様式を授けた。フルマンデルの教育、更に後のクレメンティデュセックの教育は、この生徒の演奏の才に著しい力強さと雄々しさを伝えたが、しかしそれが女性ヴィルトゥオーゾの特権であり生来の特性である優雅さのあの繊細な精華を損なうことはなかった。

庶民の動乱、血なまぐさい挿話、フランスの大いなる、しかし恐るべき革命の序章によって、この教師と生徒は移住を余儀なくされ、フルマンデルはイギリスへ、ド・シャルネ一家はドイツに移った。フルマンデルは熱心な王政主義だったために容疑をかけられ、自身の財産を没収され売却された。それでも彼は総統政府下のパリに戻り、いくらか[財産を]返還してもらうことができた。

  1. ダニエーレ・マニンDaniele Manin(1808~1857):イタリアの政治家、イタリア語教師。熱烈な共和主義者で、1848年にオーストリア帝国に属するロンバルド・ヴェネト王国で蜂起し、臨時共和政府を樹立するも翌年に降伏、パリに亡命しイタリア語教師をして生計を立てた。
  2. フルマンデルHüllmandel [Hullmandel], Nicolas-Joseph [Jean Nicolas, James Nicolas](1756~1823):アルザス地方出身のクラヴサン奏者、ピアニスト、グラス・ハーモニカ奏者兼作曲家。マルモンテルはフルマンデルがC. P. E. バッハから教えを受けたとしているが、直接に師事したという記録は見つかっていない。フルマンデルの門弟には、ジョルジュ・オンスローGeorge Onslow(1787~1853)、パリ音楽院教授となるイアサント・ジャダンHyacinthe Jadin、同音楽院院長となるオベールD.-F.-E. Auber、ピアニスト兼作曲家デゾルムリJ.-B. Désormery、シャルル・グノーの母となるヴィクトワール・ルマショワVictoire Lemachoisら、フランスの音楽教育に重要な影響を及ぼした人物やその近親者が含まれる。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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