19世紀ピアニスト列伝

ヅィメルマン 第3回 ― パリの名手が集うスカール・ドルレアンの夜会、音楽院教授の辞職

2015/01/27
ヅィメルマン 第3回:パリの名手が集うスカール・ドルレアンの夜会、音楽院教授の辞職

スカール・ドルレアンは現在もパリに残っているサン=ラザール通りに面した一角です。この場所は当時新興住宅街で作家、画家、音楽家、舞踊家、彫刻家など芸術家たちが代わる代わる住んだ活気ある場所でした。音楽家ではヅィメルマンのほかにショパン、アルカン、ポーリーヌ・ヴィアルドらが住みました。今日はそんな彼の自宅で開かれたサロンでの演奏会の思い出が語られます。
後半は、ヅィメルマンが音楽院教授を辞することとなった際、後任候補となった4名の弟子アルカン、プリューダン、マルモンテル、ラコンブの中でなぜ自身が後任に選ばれることになったのかを、含みを持たせながら語っています。

フンメル

 ヅィメルマンは、彼の周囲で大きくなっていた輝かしいサークルの中に慰めを見出していた。スカール・ドルレアンで開かれる音楽パーティーのプログラムへの参加を認められるには、ヅィメルマン家か非常に高い芸術的名声を有する人物と確かな絆がなければならなかった。イタリアから戻ったデュプレ1タールベルクショパンリスト、シヴォリ2、ド・ベリオ3カルクブレンナー4、ラブラーシュ5、タンビュリーニ6、マーリオ7、ルビーニ8、ルヴァッスール9、ロッシ夫人10、ファルコン夫人11、ソンターク夫人、ヴィアルド夫人12、フィアッツォリーニ夫人は、しばしば即興的に開かれるこれらの演奏会で活発な役割を担っていた。なんという熱意、名士の群集、時にくたびれるほどの感嘆がそこにはあったことだろうか!私は、この演奏会のある回に、オベールがからかってみたい気になって、演奏会用の曲13デーラーが演奏するのを聴きながら私にこう尋ねたのを覚えている。

「君は、いま彼が演奏している曲をご存知かね?」
「もちろんですよ、先生、演奏会用練習曲です。」
「この時刻には、エチュードは眠っていなければならないのにね」

 この言葉は不当なものだった。それはともかく、大人数ではないにせよ輝かしいこれらの親しげな集いがこの種の批判を招くことは決してなかった。ヅィメルマン夫人とその娘たちは、この集いが芸術家と文学者の一団の顔を立てるものとなるように振舞った。人々は文字合わせゲームをして遊んだ。罰として出された品物、解けない謎かけは、敗者の性格に合った様々な罰ゲームによって清算された。ゴーティエ、デュマ、ミュセは、最近の詩をそらで朗唱した。リストショパンは与えられた主題で即興した。ヴィアルド、ファルコン、ウージェニー・ガルシア各夫人もまた、歌で支払われるべき負債を抱えていた。私自身はといえば、いっそう多くの罰ゲームをこなしたことを覚えている。

 1848年、ヅィメルマンは音楽院ピアノ科の教授職を辞した。彼にはまだ活力が漲っていたし、比類ない活動をしていた。しかし、彼は自身の教育に対するひそかな敵意を感じており、それは彼の流派で形成された芸術家の側からくる敵意であった。私は、いくつもの状況下で彼が抱いた強い不満の印象として、この原因にまつわる彼の打ち明け話を受け止めた。彼の置かれた状況下では、[修了選抜試験の]審査員たちはライヴァルのクラスが有利になるように、ヅィメルマンのクラスを無視しなければならないと考えたのだった。ところで、ヅィメルマンは誰も毛嫌いしなかったのにもかかわらず、生徒に大変甘い芸術家で前任の復習教員である人物に対し執拗な反感をもっており、その人物が修了選抜試験のライヴァル[の教師]となったのだ。小さな意地悪にしつこく悩まされた彼は働き盛りだったにも拘わらず退職を要求し、ピアノ科の視察官に任ぜられた。彼は自らその決意を私に伝え、私を[自身の後任に]推薦することを約束した。彼は私にこう言った。「私が公平であり続けるだろう、なぜって、Ch.V.アルカンエミール・プリューダンルイ・ラコンブも、そして君も、私の生徒なんだから」私は、どうして自分の名前が贔屓にされたのかは別のところで述べた。ヅィメルマンに関して、彼は自らに課した公平性を一時的に断ち切ってデリケートな生徒問題についての証言を私に多くもたらした。私の任命後、彼はたびたび私のクラスにやってきて、絶えず存続する自身の伝統の権威を見出していた。

  1. デュプレ Gilbert-Louis DUPREZ(1806~1896)はフランスの名テノール。ロッシーニの《ウィリアム・テル》(ルッカ、1831初演)やドニゼッティ《ランメルモールのルチア》の初演(ナポリ、1835)に参加するなど、当時もっとも名声ある歌手として注目されていた。37年にパリに戻ってからはオペラ座で主要な役を担いマイヤベーヤの《ユグノー教徒》、オベールの《ポルティチの唖娘》など数々のオペラの上演に貢献した。数々のオペラ作曲、メソッドの執筆も手がけている。
  2. シヴォリErnesto Camillo SIVORI(1815~1824): ジェノヴァ生まれのヴァイオリニスト。パガニーニの指導を受け、パリ、ロンドンで活躍し、母国のピアノの名手アドルフ・フマガッリやフランツ・リストらと共演した。
  3. ベリオCharles-Auguste DE BERIOT(1802~1870):ベルギーのヴァイオリニスト兼作曲家。ヴィオッティの弟子に当たるロッベレヒツに師事。ヴィオッティの助言でパリのコンセルヴァトワールのバイヨのクラスを聴講した。教育者としては1843年から53年までブリュッセルの音楽院で教えた。彼がヅィメルマンのサロンに通ったのはそれ以前のパリ滞在中のことである。
  4. Frédéric KALKBRENNER(1785~1849:過去の連載記事参照
  5. ラブラーシュ Luigi LABLACHE(1797~1858):イタリア出身のバス歌手。ミラノのスカラ座でデビュー下のち、1830年にイタリア語オペラを上演するパリのイタリア座に就職、52年までここで活動。
  6. タンブリーニ Antonio TAMBURINI(1800~1876):イタリア出身のバス歌手。母国で名声を確立したのち、ウィーン、ロンドン、パリでの活躍で国際的に知名度を高め、1832年にロッシーニ作品でパリのイタリア座デビュー。多くのピアニスト兼作曲家たちが題材にした30年代の主要なレパートリー(ロッシーニの《エジプトのモーゼ》、ベッリーニの《清教徒》)で当代一流の歌手に数えられた。
  7. マーリオCavaliere de Conda, di Giovqnnni Matteo MARIO(1810~1883) : イタリアのテノール歌手。1830年代、パリで声楽の講座を開いていた。38年にオペラ座と契約しマイヤベーヤの《悪魔ロベール》、ロシーニの《オリー伯爵》などの上演に参加。デュプレと共にこの時代の主要なテノール。
  8. ルビーニGiovannni Battista RUBINI(1797~1854):イタリアのテノール歌手。母国で名声を博した後、1825年にパリに来てイタリア座でデビュー(ロッシーニの《チェネレントーラ》)。35年には同じ劇場でベッリーニの《清教徒》を初演し、ラブラーシュ、タンブリーニらと共演し、イタリア人スターとしての地位を確立。
  9. ルヴァッスールNicolas-Prosper LEVASSEUR(1791~1871):フランスのバス歌手。1807年にパリ音楽院に入学しガラのクラスで2等賞を得る。12年にオペラ(悲劇)のクラスで一等賞を得て翌年にイオえら座でデユーした。22年からはイタリア座に加わり27年までに、ロッシーニほとんどのオペラの初演に参加した。
  10. ロッシ夫人Isabrlla Colbran:イタリア座のソプラノ歌手。彼女の夫 Giovacchino ROSSI(1804~1880)は当時イタリア座の監督を務める有能な作曲家だった。ジョヴァッキーノ・ロッシ:イタリアの作曲家。ボローニャで初期の教育を受け、10代のうちからいくつもオペラの作曲を試み、1815年から22年まで、まだ若くしてナポリで王立劇場の主席作曲家を務めた。1824年にパリに移り住み、ロッシーニのオペラで人気を博していたイタリア座の音楽・舞台監督就任、作曲家としても自作オペラを成功させた。
  11. ファルコンMarie-Cornélie FALCON (1814~1897):フランスのソプラノ歌手。パリ音楽院で3つの賞を得て華々しく活動を開始する。32年にオペラ座と契約しマイヤベーヤの《悪魔ロベール》でデビューを飾る。これを機にモーツァルト、ロッシーニ、スポンティーニ、アレヴィらの主要な演目で重要な役を担うようにんあるが、37年に失声症に見舞われキャリアの幕引きを余儀なくされた。
  12. 過去の連載注7参照
  13. 恐らくテオドール・デーラー《12の演奏会用練習曲集》作品30(1839)の中の一曲。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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