19世紀ピアニスト列伝

フレデリック・カルクブレンナー 第2回

2013/12/04

F. カルクブレンナー

ショパン、リスト、ヒラーをはじめとする多くの名手が各国から、パリに集ったのは1820年代の終わりから1830年代のこと。その背景には、ピアノ開発の加速は一つの大きな要因になっています。急速に同じ鍵を連続して演奏できる「ダブル・エスケープメント」機構にパリで特許が下りたのも1821年のこと。今回はその只中でピアノ奏法の体系化に取り組んだカルクブレンナーの演奏と教育、作品に関する回想です。

F.カルクブレンナーは例外的なヴィルトゥオーソであり、ピアニスト、教師として得た二重の名声は、数多くの美点に裏付けられていた。現代ピアノ流派の創始者たるクレメンティの継承者としてのカルクブレンナーは、この巨匠の驚嘆すべきメカニスム1を従うべき模範、理想的な演奏の雛形とみなした。彼は1803年にウィーンでしばしばクレメンティの演奏を聴き、彼の弟子にまでなったのだ。この著名なヴィルトゥオーソの演奏はクレメンティの強力な影響下で変容を遂げ、カルクブレンナー自身がやがては流派の長となり、指導法において最も権威ある大家となった。彼の指にかかると、ピアノは驚くべき響きを奏で、しかもそれは決して耳に触るように甲高くはなかった。というのも、彼は決して力ずくの効果を求めていなかったからだ。レガートで持続し、よく響き、完璧な均質さを備えた彼の演奏は、人を驚かせる以上に聴き手を魅了した。そして、非の打ち所なき明瞭さ、極めて難儀な走句、比類なき大胆さを誇る左手によって彼は一線を画するピアニストであった。更に付け加えよう。完璧な指の独立、決して動かない腕―今日では頻繁に用いられる―2、頭、全き平静を保つ頭と胴体、完璧な姿勢―これら一体となった数々の美点は完全に聴取の悦びへと誘い、聴いて疲れる体操[のような演奏]によって聴衆の気をそらせることはなかった。カルクブレンナーのフレージングの技法にはやや表情と伝わりやすい熱気が欠けてはいたが、様式は常に後期で真実味があり、偉大な流派に属するものであった。
カルクブレンナーはピアノのために多くの作品を書いた。彼の作品は、常に正確で批判を許さない和声に基づき、非常に対話的に扱われており、両手に対して等しい重要性を持つように書かれているので、知る上で非常に興味をそそられ、非常に得るところの多い出来栄えを示している。シリアスな作品の中では、次の作品に注意を促しておく。二つ五重奏(うち一つはピアノと弦楽用)、ピアノとヴァイオリンのデュオ、ピアノとヴィオラまたはチェロのためのデュオ。複数の4手用ソナタと小品、ピアノ独奏用ソナタ(うち一つは左手に重点を置いたもの)、オーケストラ付きの5つの協奏曲、非常に多くのロンド、幻想曲、主題変奏、奇想曲、数々のフーガ、重要度の高い練習曲集、そして最後に挙げるべきは手導器3を用いる理論的・実践的な大教程 である4
この著作が大きな成功を収めた要因は、筆者の考えるに、カルクブレンナーが非常に上手く公式化した卓越したメカニスムの規則にあると言える。著者の名前がもつ権威とこの作品の末尾に置かれた見事な練習曲もまた、この著作の人気の一翼を担っている。だが、もしメソッドという言葉によって漸進的で巧みに段階的に組織された教育、つまり初歩的な原則からゆっくりと芸術の至高の状態へと高められる教育を意味するなら、筆者は良心に何ら恥じることなく、こう述べざるを得ない。そのような前進の仕方は存在しないのだ、この著作はメソッドではなく、上級者用の卓抜な助言集なのだ、と。
カルクブレンナーの作品の重要性とその数の多さを考慮に入れれば、彼の内に一流の大家の姿が認められるはずだ。彼の作品はどれをとっても高尚な性向、実に多様な様式と形式、そして霊感をもよく示し、着想を極めて正確に音楽言語に翻訳するそれ自体で堅牢かつ確かな手腕をはっきり見せている。しかし、付言しておくべきは、これらの作品の質と仕上がりの実際的な美点にも拘らず、F.カルクブレンナーの作品は古くなってしまった。それらの様式は時代遅れで独自性を欠く。

  1. 「メカニスム」とは身体の物理的な所作を指す語。「表現」や「様式」という概念から身体の純粋に物理的機能を分離して考えるためにしばしば用いられる。
  2. カルクブレンナーが音楽院で師事したルイ・アダンは、ピアノの演奏のために腕の力を極力使わないことを推奨した。現在のピアノに比べ鍵盤の幅が狭く、ハンマーの軽かったピアノの演奏においてはこうした演奏は理にかなっており、また「エレガント」な姿勢とされた。
  3. 手導器guide-mainsは鍵盤に沿って装着するバーで、これで両手を支える演奏補助器具。参照:http://www.piano.or.jp/enc/fb/view/35/
  4. カルクブレンナー『手導器を用いてピアノ・フォルテを学ぶためのメソッド』作品108(1831)。(訳・脚注:上田泰史)

(訳:上田泰史)


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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