19世紀ピアニスト列伝

エミール・プリューダン 第3回 心広き音楽家

2013/05/28
エミール・プリューダン
心広き音楽家

今日はピアノの詩人と謳われたエミール・プリューダン(1817~1863)の小伝第3回。すっかり一人前になったプリューダンは、国際的な名声を高めていきます。しかし、プリューダンは昔と変わらず決して友人に対して傲慢になったり、嫉妬を抱いたりすることはありませんでした。そんな寛大な性格を証明する逸話が今回の主な内容です。1848年、パリ音楽院教授候補の一人に選ばれたプリューダンは著者のマルモンテル、そして独創的なピアニスト兼作曲家アルカンとともに結果を待つことになりました。結果的にはマルモンテルがポストを得ることとなりましたが、そのときプリューダンがライバルにとった態度とは。

活力に満ち満ちて一人前になったプリューダンにはまだいくらかぶっきら棒な振る舞いを残していたが、青春時代のように気取らなくなっていた。だが、こうした親しげな見かけの下に、人はすぐさまある種の知力(エスプリ)を認めていた。それは語の慣用的な意味で洗練されているとは言えないが、繊細で思慮深く、初期の教育で不足していた知識を読書と観察を通して吸収しようとしていた。

プリューダンの顔立ちは全体、細部ともに整っていた。小さな口、切れ長の目。栗色で濃く、ふさふさとした顎鬚のおかげで、彼の顔の輪郭はとてもぼやけていた。このヴィルトルオーゾは、絹のように艶やかで長く伸び、かつ御しがたいその髪を、しはしばしば頭を振って後ろにやることがあった。この癖は、少々荒っぽい表現を余儀なくされる華麗な曲を演奏する間、プリューダンに大変よくみられたものだ。

思春期だったころの私は、同じ門下生として、また寛大であの忌むべき欠点とは無縁のなライヴァルとしてのプリューダンをとてもよく知っていた。その欠点とは、羨望、嫉妬心であり、それは往々にして芸術家たちの心を傷めるものだ1。私は、自身の人生の2つの重要なときに、プリューダンの卓越した本性を判断することができた。1832年、私は彼とともに、一等賞に向けて努力していた。我々両者は、すでに二等賞を獲得していたのである。その年、私ただ一人が満場一致で1等賞を獲得した。プリューダンは少しの悔恨の情も見せずに私に抱きついて、キスをした。1848年、私が音楽院のピアノ科教授に任命されるとき、エミール・プリューダンとヴァランタン・アルカンが、私とともに、大臣の示した候補者リストに記載されていた。私の二人のライヴァルが私に比べて優位に立っていることには異論の余地がなかった。プリューダンはすでに有名なヴィルトゥオーゾ、作曲家であったし、アルカンは壮大な様式を有するピアニストであり、抜きん出て独創的な作曲家だったからである。教育上の成功、教師としての名声、学校への奉仕が認められて、大臣は私を選任した。私は、自分が任命されたまさにその日にプリューダンに会ったが、彼は愛情を込めて私と握手を交わし、しごく唐突にこう言った。「任命されなかったのは残念だけど、僕はひいきの候補者ではなかったのだから、この選択を歓迎するよ。」

性格上の特徴に関して、つまりオベールの以後、芸術家が誰一人として逃れることのできなかった狂気の小さな種に関して、プリューダンが特に熱中したのは、社会的な問題を扱うことだった。フーリエ、サン=シモンは彼にとって預言者だった2。新たな思想を信奉する知的な精神の持ち主、学問を愛する探求者プリューダンは、1830年の青春時代さながらに人類を未知の道へと導く大きな潮流の中で道徳的な生活に目覚めた。彼が強く影響を被ったのは初期に抱いたこの幻影だった。

プリューダンはまだ若くしてこの世を去ったが、それでも彼は既に長い活動を通して獲得してきた異論の余地なき名声に抱かれている。我々は、ピアニストたちの間で最もよく知られている作品のみを挙げることにする。次のオペラに基づく幻想曲:「ルチア」[作品8]、「ユダヤの女」[作品26]、「ユグノー教徒」[作品18]、「白衣の婦人」[作品29]、「ドミノ」[作品51]。これらは壮麗な演奏会用の作品である。「リゴレット」[作品61]、「ドン・パスクヮーレ」[作品13]、「トロヴァトーレ」[作品55]、「エルナニ」[作品31]「女は気まぐれ」[作品62]に基づくカプリースもまた、壮大な効果を発揮する完璧に書かれた作品である。『ラ・ファランドール[作品33]』、『セギディリャ?[作品25]》《妖精の踊り[作品41]》、『アリエルの夢[作品61]』は輝かしいサロン用の作品だ。交響的協奏曲[作品34]、『三つの夢[作品67]』は、オーケストラ・パートに巨匠の筆致が見られる壮麗な様式の作品である。練習曲集『リート集?[作品60]』、『ツバメ[作品11]』、『夜警[作品10]』、『鬼火?[作品16-6]』はいずれも軽妙な性格の見本であり、優雅で魅力あふれる着想の雛形である。

  1. この後で、教授任命を巡る問題について書かれているが、この部分は、マルモンテルが任命されたことに対し著しい深い感を味わったアルカンを念頭に置いているだろう。
  2. このくだりは、19世紀に活発化したサン=シモン主義者の活動を指す。哲学者アンリ・ド・サン=シモン (1760-1825)は生産階級を社会基盤とみなす後の社会主義の理論的枠組みを構築したフランス人。彼の没後、門人たちによって彼の遺志の継承が図られ、1830年の7月革命を期に思想の普及活動が高揚した。音楽の啓蒙力はサン=シモン主義者たちにとって歓迎すべき武器であり、フランツ・リスト、ベルリオーズ、フェリシアン・ダヴィッドら作曲家やテノール歌手のアドルフ・ヌーリも活動に関与した。だが、中産階級市民を優遇するルイ=フィリップの治世下(七月王政, 1830-1848)の彼らの思想は直接政策に反映されることはなく、あくまで理想にとどまった。社会福祉や労働組合などに関する政策を実行に移したのは1852年に政権を奪取し第二帝政を開始した皇帝ナポレオン三世の御代になってからのこと。
参考音源
E.プリューダン 『12のジャンル・エチュード』より、第6番「鬼火

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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