脳と身体の教科書

第12回 ピアノ演奏による身体の故障(1)

2010/12/07
ピアノ演奏による身体の故障(1)

ピアノ演奏は非常に反復性が高い運動です。1分間に何百から何千もの鍵盤を打鍵しなければいけない曲も少なくありません。その過程で、筋肉や腱には負荷が蓄積し、炎症を引き起こしたり、時には、脳に好ましくない変化を引き起こすことすらあります。ピアノ演奏が引き起こしうる身体の故障問題について、2回に分けてお話します。

(1) ピアニストの故障の実態について

ピアノの練習によって身体を傷めた経験のある人がどれくらいいるかを調べるために、私は2003年に203名のピアノ専攻の音高・音大生、ピアニスト、ピアノ教師の方を対象に、アンケート調査を実施しました。その結果、実に77%に及ぶ回答者が、過去5年のうちに練習時に身体のいずれかの部位に痛みや痺れを経験したことがあると回答しました(表1)。部位別に見ると、手・指、前腕、肩の発症が最も多く、年代別に見ると、音大生の故障発症が最も多いことがわかりました。また、加齢に伴い、首・胴体に痛みやしびれの問題が増えること、さらには、これら痛みや痺れを経験したことのある回答者の44%が、専門医の治療を要する深刻な故障を発症していることがわかりました。

ピアニストのための脳と身体の教科書

【出典】
Furuya S, Nakahara H, Aoki T, Kinoshita H (2006) Prevalence and causal factors of playing-related
musculoskeletal disorders of the upper extremity and trunk among Japanese pianists and piano students.
Med Probl Perform Art 21: 112-117

ピアノ演奏による身体の故障問題で最も有名なものは、「腱鞘炎」「手根幹症候群」「フォーカル・ジストニア」でしょう。腱鞘炎は一般に、筋肉と骨をつなぐ「腱」の周りを覆っている鞘(腱鞘)が炎症を起こしたり損傷した状態で、激しい痛みを伴います。例えば、ピアニストによく起こる腱鞘炎の中に、ド・ケルバン病というものがありまして、これは親指の付け根の手首側に激しい痛みを伴います。他にも、肘の内側や外側が痛くなる「上顆炎」も、ピアニストにはよく報告されています。

二つ目の手根幹症候群は、手首の中を通る正中神経という神経が圧迫されたり損傷し、指に痛みやしびれが生じる問題です。これは、ピアニストに限らず、パソコンをよく使う方にも起こる職業病として知られており、痛みのあまり夜寝られなくなるといった、時に日常生活に深刻な影響を及ぼすため、場合によっては手術を勧められることもあります。

三つ目のフォーカル・ジストニアは、腱鞘炎や手根管症候群とは異なり、一般に痛みやしびれは伴いません。しかし、ピアノを弾こうとすると、意図せず手指に力が入って固まってしまったり、意図しない指の動きが起こってしまったりと、思い通りに手指を動かせなくなる病気です。多くの場合、「ピアノを弾こう」と思うと、途端に症状が表れ、日常生活では症状が表れません。しかし、音楽家の100人に1人が発症すると言われており、今なお完治につながる治療法は確立されていません。この難病の背景にある脳神経メカニズムを解明することが、私の研究の大きなテーマの一つでもありますので、もう少し詳しくご説明します。

腱鞘炎や手根幹症候群は、末梢の身体部位の問題ですが、フォーカル・ジストニアは脳で起こる問題だということが知られています。つまり、手指の動きを思い通りにコントロールできなくなるのは、手指を動かす働きを担っている脳の部位に、通常では起こり得ない変化が起こっているからなのです。具体的には、フォーカル・ジストニアにかかると、脳には、「筋肉に送る指令を抑制できない」「身体から送られてくる感覚の情報を正しく処理できない」「意図していないのに、動かす必要の無い筋肉に指令を送ってしまう」といった変化が起こります。特に、運動の開始や抑制に関与する大脳基底核や、皮膚や筋肉からの感覚を処理する体性感覚野、あるいは体性感覚野と運動野(筋肉に指令を送る脳部位)を結ぶネットワークに、好ましくない変化が起こることが知られています。

治療には、ボツリヌス神経毒素の投与や鍼灸、指を副木で固定し、脳で起こっている好ましくない変化を元に戻すトレーニング(Constraint-induced therapy)、アレクサンダー・テクニックなどが用いられています。しかし、前述のように、完治するための治療法は未だ確立されておらず、主にアメリカやドイツ、イギリスの研究者達が中心となって研究が行われています。特に21世紀に入ってからのフォーカル・ジストニア研究の進歩は目覚ましく、急速な勢いで発症のメカニズムの解明や治療法の開発につながる知見が報告されています。(続く)



<参考文献>
Altenmüller E, Jabusch HC (2010) Focal dystonia in musicians: phenomenology, pathophysiology and triggering factors. Eur J Neurol 17 Suppl 1:31-6
Elbert T, Rockstroh B (2004) Reorganization of human cerebral cortex: the range of changes following use and injury. Neuroscientist 10 (2):129-41
Hallett M (2010) Neurophysiology of dystonia: The role of inhibition. Neurobiol Dis (in press)
Lim VK, Altenmüller E, Bradshaw JL (2001) Focal dystonia: current theories. Hum Mov Sci 20 (6):875-914

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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