19世紀ピアニスト列伝

ルフェビュル=ヴェリー第3回:オルガンとピアノの名手

2016/08/03
ルフェビュル=ヴェリー
第3回:オルガンとピアノの名手

 19世紀、オルガニストとピアニストは、現在ほど職業的に分離していませんでした。19世紀中葉以降、ピアノで即興を行う教育は次第に廃れていきますが、オルガニストにとって、即興は常に重要な技術でした。今回は、ルフェビュル=ヴェリーがいかにしてオルガンとピアノの両分野で評価されていたか、という点が話題になります。後半では、彼のオペラ=コミック作曲の試みについて触れられています。

ド・モンジュルー夫人

ルフェビュル=ヴェリーは、´´´´´´という楽器(サロン用、礼拝堂での伴奏用のオルガン)を活動的かつ献身的に宣伝していた。彼の助言と指摘にもとづいて、これらの小型オルガン製造に数々の改良がもたらされ、そのおかげで、目新しく、大変よく鳴り響く効果が得られ、非常に多様な音色が備わり、指の圧力と工夫を凝らした送風機の動作によって歌唱的に、´´´´´´なった1。ハルモニウムの普及に尽力したあらゆるヴィルトゥオーゾたちの中でも、ルフェビュルは、優雅で魅力的な発想、楽器の多様な効果を活用する素晴らしい技術において、卓越した地位を保つことができた。即興オルガニストとしての超絶的かつ全く尋常ならざる彼のヴィルトゥオジティは、どの点においても、彼のピアニストとしての見事な演奏に悪影響を及ぼすことはなかった。軽く、繊細で敏捷な彼のタッチは、オルガンを毎日練習すると演奏が重くなり、精彩と感情の機微を失わせるという、一般によく流布している主張に、何の根拠もないことを悟らせる。思うに、一般に知られているこの先入観を流布させたのは、予備的なピアノの練習を十分に積まないでオルガニストになった凡庸なピアニストである。

こんにち、[現に]一流のピアニストでもある、巧みなオルガニストたちを見出すことができるではないか。カミーユ・サン=サーンスアンリ・フィッソ2ヴィドールフランクアルカン、テオドール・デュボワ3、ベゾッツィ4、バジール5、コーエン6の名を挙げるだけで十分だが、その他にもまだたくさんの名前が挙げられるのだ!ただ、次のことは認めておこう。昔のオルガンは、非常に美しく響いたが、メカニズムの点では十分とは言えなかった。鍵盤は、現代作られたものほど音を出しやすくはなかったし、現代のオルガン奏者なら省けるような、鍵盤に対する力と動作が必要だったのだ。

ルフェビュル=ヴェリーの豊かな素質、知識をもってしても、この著名なオルガニストに心から愛情を注いだモルニー伯爵の後ろ盾をなくしては、彼がオペラ=コミック座での作品上演許可を得ることは出来なかっただろう。第二帝政時代の高名なこの政治家が、外交や議会の合間に、我を忘れてオペレッタや 軽喜劇ヴォードヴィルを書いていたということは知られている。彼は、数字譜の擁護者にもなった。心遣いからか、信念からか、ルフェビュル=ヴェリーはガラン=パリ=シュヴェ・システム7の熱心な信奉者をもって自任していた。こうした相互の好意のおかげで、彼の《勧誘員たち》は、オペラ・コミック座の舞台で上演された。見事に上演され、完璧に歌われたこの作品は、その魅力的なインスピレーションにもかかわらず、専ら玄人にしか受けなかった。この実験は、ルフェビュル=ヴェリーには十分であるように思われた。そして彼はまた、いつも流行が好意的に迎えてくれる、たくさんの軽い曲を、音楽の潮流の中に投じたのだった。

  1. こで「表現力豊かに(expressif)」が強調されているのは、漸次的な強弱(クレッシェンド、ディミヌエンド)など、繊細なニュアンスのコントロールが可能なハルモニウムが「表現豊かなオルガン(orgue expressif)」と呼ばれていた為である。
  2. 過去の連載記事、脚注4参照
  3. デュボワThéodore Dubois (1837~1924):アンブロワーズ・トマの後を継いで1896年から1905年までパリ音楽院院長を務めることとなる人物。学生時代、デュボワはマルモンテルのクラスで1857年に第1次席を得てクラスを離れたが、同年に対位法・フーガのクラスで1等賞、1861年にローマ大賞を獲得。オルガンのクラスでも1858年に1等賞を得た才人である。ピアノ作品も多く、独奏曲だけで61作品がある。《合唱と小さな妖精の踊り》作品7はマルモンテルに献呈、《12の練習曲集》(1906刊)が力作である。
  4. ベゾッツィ Louis-Désiré Besozzi (1814~1879):ヴェルサイユに生まれ、11歳でパリ音楽院に入学。ヅィメルマンのピアノ・クラスで1831年に1等賞。1833年、和声・実践伴奏クラスで次席。1837年にローマ大賞も獲得している。1835年から2年間ソルフェージュ科の教員を務めるが、以後はピアニスト、オルガニスト兼作曲家、教育者として膨大な量の作品を出版している。ピアノ曲では《12の性格的練習曲》作品19(1853刊)、《12の練習曲》作品27(1857刊)、80曲から成る《素描集》(1864刊)、《全長短調による前奏曲》作品144など厳格な様式の作品群に、多数の性格的小品、ベートーヴェン、モーツァルトなど古典的作曲家の編曲、オルガン、ハルモニウムのための作品、合唱曲がある。《素描集》の初版表紙には、彼が「宗教音楽学校」のピアノ教授であったことが書かれている。これは、おそらく1853年にニーデルメイエールが創設した古典・宗教音楽学校である。サン=サーンスも後にこの学校でピアノを教えた。
  5. バジール Auguste-Ernest Basille (1828~1891):パリ出身のオルガニスト。パリ音楽院に学び、1845年に和声とオルガンのクラスで1等賞、翌年に対位法・フーガのクラスで1等賞。48年にローマ賞コンクールで2等賞を得る。オペラ・コミック座で伴奏者、次いで合唱指揮者(chef de chant)を努めた後、53年からサン=テリザベート教会、サン=フランソワ教会のオルガニストとして活動。78年にパリ音楽院でピアノ伴奏家教授を努めた。ナンシーの大聖堂、パリのサン=シュルピス教会、ラザリスト教会のカヴァイエ=コル製作のオルガンを公衆の前で演奏したが、公開演奏会は殆ど行わなかった。ピアノ曲に関しては、舞曲や性格的小品を残しているが、ベゾッツィ、ルフェビュル=ヴェリーほどこの分野に重きを置いていない。
  6. 過去の連載記事、脚注1参照
  7. 数学者のピエール・ガランPierre Galin(1786~1821) が理論化した数字による記譜法。1818年にルソーの数字譜に着想を得て「メロプラスト」と名付けた独自の記譜法を発表。弟子の数学者、エメ・パリAimé Paris (1798~1866)とエミール・シュヴェémile Chevé(1804~1864)によって普及・体系化された。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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