19世紀ピアニスト列伝

カミーユ・スタマティ 第2回: ―転身~公務員から音楽家へ

2015/04/06
カミーユ・スタマティ 第2回:
―転身~公務員から音楽家へ~

転職には常にリスクがつき物です。まして、安定した県庁職員が音楽家になるとしたら・・・。今でも、家族が突然音楽家になりたいと言い出したら普通は反対されるのが普通です。スタマティを県庁職員に育て上げた音楽愛好家の母はその点、常識人でした。しかし、スタマティの音楽的才能には常識の枠に収まらない熱がこもっていました。
第2回は、ローマに派遣されていた外交官の父が亡くなり、母とともにパリにやってくるシーンから始まります。文学を学び、やがて県庁職員になりますが、ある出会いをきっかけに音楽家へ転身します。そのきっかけとなったのは、カルクブレンナーでした。

リース

1818年、[父]スタマティ氏の死によって彼の若い妻はフランスに戻らなくてはならなくなった。ディジョンに数ヶ月滞在した後、彼女はパリに定住することになった。パリでは家族愛と真の友情ばかりでなく、とりわけ自分の息子の文学教育が必要とした配慮もまた彼女の心を捉えた。それというのも、考慮しておくべきことに、カミーユ・スタマティは音楽の勉強をさして重要ではない気晴らしとしていたからである。14歳になってようやく、彼は自分専用のピアノを持った。家族の助言を受けていたスタマティ夫人は、人がわが子の音楽的天性について気づいていた事柄を更に発展させるどころか、息子が芸術家の道よりもいっそう穏やかな職業に就くことを思い描いていた。彼女は、彼が外交官や技師、あるいは公務員になることを願ったのである。
幸運にもスタマティには音楽芸術の才があり、練習にはわずかな時間しか割けなかったにもかかわらず、目覚しい進歩を遂げたということは認めなければならない。というのも、フェティスはスタマティについて書いた伝記的な記事の中でおよそこの時期に作曲され出版された変奏主題について述べているからである。しかしその頃まで、若きヴィルトゥオーソの切望していたものは世の人々がワルツやカドリーユを書いて追い求めるような成功、つまり、自尊心を満足させ、安上がりに得られはするが、しかしサロン―その夜会の席で名声は生まれる―の室内のような場所に限定された名声でしかなかった。幸運にも、スタマティがこうした安易な成功に甘んじていることはなかった。彼は文学の学習で余った自由な時間があれば熱心に練習し、すでに形づくられていた彼の趣味によって、ますますしっかりとした様式の作品へと導かれていった。
ヅィメルマンが念入りに教育したたいへん優れた音楽家の一人であるフェシー1は、何年もスタマティの音楽教育を指導した。これほど能力があり、自分の生徒の美質を理解していた教師をほかに見つけることはできなかった。フェシーはスタマティに高名なヴィルトゥオーソの演奏を聴く機会があれば必ず聴かせ、彼に音楽を主な活動とし、職業とするよう勧めた。カミーユ・スタマティはしかし、まだそのような状況にはなかった。県庁に勤めていたので、ピアノに向かう時間はわずかしか残されていなかったのである。だが、彼は[公務員からヴィルトゥオーゾへ] 容易に変貌を遂げるために、十分なヴィルトゥオジティと専門知識を身につけた。
ついに、カルクブレンナーとの思いがけない出会いによって、スタマティは役人という平穏かつ単調な生き方に終止符を打つ決心をした。スタマティが自作の変奏カドリーユを弾いていたある夜会で、カルクブレンナーはこのヴィルトゥオーソの優雅な演奏と気品ある着想に魅了された。一人の愛好家に音楽的素質とこれほどの著しい適性を見出したのに驚いて、彼はスタマティに助言を与え、若きヴィルトゥオーソの将来の保証人となり、スタマティを弟子とし、スタマティはやがてカルクブレンナーの助手となった。
若き作曲家はこの決断について後悔すべきことは何もなかった。もちろん、決断それ自体は常に重大なものではあったが。愛好家が一人の芸術家になろうとするとき、彼は真のディレッタントたちに備わる生来の厳格さを考慮に入れなければならない。彼は、長年その名を人々に知らしめてきた職人や、その日暮らしをする人々と同じ資格で、時にはそれよりも厳しく人々に判断されるのである。オンスローマイアベーアメンデルスゾーンは、愛好家という肩書きが想起させる不当な疑念を天才の一撃で打ち破らねばならなかった。スタマティは、彼らほど美質を持ち合わせていなかったが、しかしかくもエネルギッシュな意志のおかげで、かくも果敢に費した労力を[音楽家としてのキャリアに]注ぐこととなったのである。

  1. フェシーAlexandre-Charles FESSY (1804~1856)
    フランスの作曲家、オルガニスト。12歳でパリ音楽院に入学し、ヅィメルマンのクラスでピアノの1等賞を得、その後、オルガンのクラスにも登録し、スタマティが後に作曲の助言を受けることとなるF. ブノワのクラスでも1等賞を獲得した。当時建設中だったマドレーヌ寺院のオルガニストを務めた。この寺院のカヴァイエ=コルのオルガンが完成すると、同じヅィメルマン門下の生徒だったルフェビュール=ヴェリーが1847年にフェシーにとって代わった。この間にも、フェシーは様々な楽団の指揮者を務め、作曲や編曲、教則本の執筆にも精を出した。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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