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メンデルスゾーン  Mendelssohn, Felix  ドイツ ]  1809 - 1847

作曲家解説

2011年9月  執筆者: 星野 宏美
メンデルスゾーン 作曲家解説
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  1 メンデルスゾーンの生涯

 19世紀前半のヨーロッパ市民社会に生き、ロマン派の詩情を歌いあげた作曲家、フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809~47)。その美しい調べは、生前からこんにちに至るまで広く人々に愛されてきた。

 有名なホ短調の《ヴァイオリン協奏曲》や、歌曲〈歌の翼に〉、ピアノのための〈春の歌〉、さらには〈結婚行進曲〉など、作曲者の名を知らずとも、誰しも耳にしたことがあるだろう。瑞々しく純粋で、あたたかな感情に溢れた音楽。メンデルスゾーンの作品はいずれも、彼の魅力的な人柄を映し出し、また、彼の活躍した時代の息吹を伝えている。

 1809年2月3日、北ドイツのハンブルクにて彼は誕生した。父方の祖父モーゼス(1729~86)は著名な哲学者、父アーブラハム(1776~1835)はドイツ屈指の銀行の創設者という、ユダヤ系ドイツ名門一族の生まれである。1804年よりメンデルスゾーン銀行は交易都市ハンブルクにて投機的拡大を図っていたが、1811年、ナポレオン戦争の煽りを受けて、一家は故郷ベルリンに舞い戻った。

 1816年3月21日、両親はフェーリクスを含む4人の子供たちにキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受けさせる。1822年には、両親もユダヤ教からキリスト教へと改宗した。ユダヤ人が当時、社会的に成功するためには、改宗が不可欠と判断したからだった。そして、この頃から一家は、「メンデルスゾーン」というユダヤ系の姓に、「バルトルディ」というヨーロッパ系の姓を付加し、「メンデルスゾーン・バルトルディ」というダブルネームを用いるようになる。

 フェーリクスは、教養豊かな両親のもと大切に育てられ、まばゆいばかりの早熟の才を開花させた。母レア(1777~1842)から音楽の手ほどきを受けた後、7歳頃からピアノとヴァイオリンを当時一流の教師に師事した。9歳の時に神童ピアニストとして公開演奏会にデビューしている。10歳頃からカール・フリードリヒ・ツェルター(1758~1832)について作曲を学び、コラールの和声付けや対位法を中心に、厳格な作曲技法を身につけた。また、ツェルター主宰のジングアカデミー(市民的合唱協会)に1820年に入会し、パレストリーナやバッハやヘンデルなど、過去の大作曲家の宗教曲を歌っている。同年、ベルリンのマリア教会にて、オルガンのレッスンも受け始めた。1819年終わりから本格的な作品を次々と手掛けるようになり、1823年までに弦楽交響曲12作、協奏曲5作、ジングシュピール4作、その他にも宗教曲、合唱曲、独唱曲、室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲など、100作を優に超える作品を生み出した。1825年、16歳で作曲した《弦楽八重奏曲》(Op.20)や翌年の《夏の夜の夢》序曲(Op.21)は、彼の代表作であるばかりでなく、音楽史上の最高傑作に数え入れられよう。
 少年期のメンデルスゾーンはまた、音楽だけでなく、文学や数学、地理や歴史、絵画やスポーツなど、あらゆる分野にわたって高水準の教育を授けられ、幅広い知識と教養を身につけた。自邸には、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769~1859)やハインリヒ・ハイネ(1797~1856)ら、知識人たちが足繁く出入りし、子供たちとも親しく交わった。メンデルスゾーンは、少年期より旅もよくした。1821年にはツェルターに連れられ、ワイマールのヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)を訪問し、「最良の弟子」と紹介された。1825年、父とのパリ旅行では、ロッシーニやリストらと知り合うとともに、楽壇の大御所ケルビーニから才能を認められた。
 1821年には、その後メンデルスゾーン家恒例となる日曜音楽会が始まった。隔週日曜日に開かれたこの自邸音楽会において、メンデルスゾーンは自作をいち早く音にすることができた。通常は彼と姉ファニー(1805~47)のピアノ演奏が中心となり、知人たちのアンサンブルが加わったが、時には宮廷楽士によるオーケストラも雇われた。

 公開演奏会でもメンデルスゾーンの作品は1823年頃からベルリンで、1827年頃からはベルリン外でも取り上げられるようになった。1823年には、初の出版作品が発表されている。Op.1~3のピアノ四重奏曲、Op.4のピアノとヴァイオリンのためのソナタ、Op.5~7のピアノ独奏曲、Op.8~9のピアノ伴奏付き歌曲と、ピアノを含む作品の出版が続いた。Op.10のオペラ《カマーチョの結婚》(1825年作曲)は、上演にこぎ着けるまで非常に苦労した上に、1827年の初演が不評に終わったので、彼は大きな挫折を味わった。同じ1827年から4学期、ベルリン大学に在籍し、ヘーゲルの美学講義などを熱心に聴講している。

 1829年3月、ベルリンのジングアカデミーにて、弱冠20歳のメンデルスゾーンはバッハ作曲《マタイ受難曲》を約100年ぶりに復活上演し、成功を収めた。この上演により、一般には古めかしいと忘れ去られていたバッハが不滅の大家として蘇ることとなり、音楽史上、画期的な出来事となった。

 同年4月にはイギリスを単身訪れ、交響曲第1番(Op.11)や《夏の夜の夢》序曲などの自作を指揮するとともに、ピアニストとして華麗な演奏を披露した。12月にいったん帰郷した後、1830年5月から1832年6月までヨーロッパ全域を巡る大旅行に発っている。ドイツを南下し、オーストリアを通ってイタリアに長期滞在し、スイス、フランスを北上し、イギリスを再訪してからベルリンに戻った。この間、ミュンヘンやヴィーン、パリ、ロンドンなどの大都市では自作の演奏機会を求め、大手楽譜出版社とOp.11~26の出版交渉を進めた。創作の上でも実り多く、旅先の風土に触発されて「スコットランド」交響曲(Op.56)や《ヘブリディーズ諸島》序曲(Op.26)、「イタリア」交響曲(Op.90)などの着想を得た一方で、ルター派のコラールに基づく宗教曲やゲーテの詩による《最初のワルプルギスの夜》(Op.60)など、ドイツ的な作品も多く手掛けた。異国で彼はドイツ人としてのアイデンティティを強く自覚したのであろう。

 帰郷後、メンデルスゾーンは、1832年5月に没したツェルターの後任としてベルリン・ジングアカデミーの指揮者の地位に応募するものの、1833年1月の選挙で敗退した。若すぎるという理由のほか、ユダヤ出自が障害になったと推測される。失意とともに彼はベルリンを去るが、5月にはロンドンにて「イタリア」交響曲の初演を、引き続き、デュッセルドルフのニーダーライン音楽祭にて自作とヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を指揮し、成功を収める。ニーダーライン音楽祭に彼はその後も何度も招聘され、ヘンデルのオラトリオをいくつも上演したほか、1836年には自作のオラトリオ《パウロ》(Op.36)を初演している。彼はまたイギリスを愛し、生涯に計10回訪問した。

 1833年秋、メンデルスゾーンは、デュッセルドルフの音楽監督として迎え入れられた。彼の職務は、同地のオーケストラと合唱を指揮し、また、カトリック教会での音楽を担うことであった。バッハのカンタータやハイドンのオラトリオ、ベートーヴェンの交響曲、モーツァルトのオペラなど、意欲的なプログラミングで挑んだが、素人混じりの演奏団体には限界があった。新設の劇場運営を巡って支配人のカール・インマーマン(1796~1840)と仲違いしたこともあり、彼はより良い音楽環境を求めて転職を考えるようになる。創作の上では、この時期に大作《パウロ》に集中して取り組んだほか、歌曲〈歌の翼に〉(Op.34/2)やピアノのための無言歌〈ヴェニスの舟歌〉(Op.30/6)など、若き作曲家の恋への憧れを窺わせる名曲も生み出している。

 1835年秋、メンデルスゾーンは伝統あるライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの5代目指揮者に就任する。彼はここで、年20回の定期演奏会のプログラミングを行い、練習を付け、指揮棒を振って本番を統率するという、近代的な指揮のあり方を確立した。それまでのライプツィヒでは、コンサートマスターがヴァイオリンを弾きながら要所で合図を送る程度だったので、彼のやり方は革新的だった。彼はまた、演奏会で指揮するだけでなく、ピアニストとして協奏曲や独奏曲を弾き、歌曲を伴奏した。室内楽ではピアノに加えてヴィオラも担当し、まさに八面六臂の活躍であった。オーケストラ団員の社会保障の充実に尽力するなど、音楽組織の近代化にも大きな影響を与えた。芸術的才能と組織運営の両方に長けたメンデルスゾーンは、新しい時代の輝けるリーダーだった。

 極めて多忙な演奏会シーズンに対し、夏の休暇の間、彼は作曲に専念するとともに、ヨーロッパ各地に演奏旅行に赴いた。プライベートでは、1836年初夏、指揮に招かれたフランクフルトにて、フランス改革派教会牧師の娘セシル・ジャンルノー(1817~53)と知り合い、翌年結婚した。後に4人の子供に恵まれている。セシルと出会ってまもなくは、歌曲(Op.34/3~4, 34/6)や二重唱曲(Op.63/1,77/1, Op.番号なしの3つの民謡)、ピアノ曲(Op.38/3~6)など、美しい小品を手掛けた。1837~39年頃に室内楽曲(Op.44, 45, 49, Op.番号なしのヴァイオリン・ソナタ)に集中して取り組んだのは、ライプツィヒでの生活が公私ともども落ち着き、気心の知れた音楽仲間とアンサンブルを楽しむ余裕ができたからだろう。大規模な作品としては、ピアノのための協奏的作品(Op.40, 43)や、独唱、合唱、オーケストラのための詩編カンタータ(Op.42, 46, 51)がまず続き、1840年代に入ってから、満を持して完成させた交響曲カンタータ(Op.52)と「スコットランド」交響曲が、彼の名声を確固なるものとした。

 1833年にジングアカデミーの指揮者の選挙で敗退した後、メンデルスゾーンはベルリンの音楽活動から遠ざかっていたが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840~1858/61)の強い要請を受け、1841年より同地での仕事を兼務するようになった。当時、列車が開通したこともあり、ライプツィヒとベルリン両都市を頻繁に往き来する生活が始まる。1841年7月から1842年11月までと、1843年11月から1844年4月までは、家族とともにベルリンに移り住んだ。1842年11月22日には、プロイセン音楽総監督に任命される。しかし、プロイセンを一大文化国家にするという王の壮大な構想はなかなか具体化せず、不満を募らせたメンデルスゾーンは、1844年11月にベルリンから完全に退いた。王の命により作曲された作品には、《アンティゴネ》(Op.55)や《夏の夜の夢》(Op.61)など、ポツダム新宮殿における古典劇上演のための劇付随音楽、そして数曲の詩編曲(Op.78, 91ほか)や《ドイツ典礼》など、ベルリン大聖堂聖歌隊のための典礼音楽がある。

 ベルリン兼務を始めた頃、メンデルスゾーンはまたドレスデンのザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世(在位1836~54)との結びつきも深めていた。1841年7月1日には、ザクセン王室楽長に任命される。同時期には、ワーグナーもドレスデンで出世をねらっており、2人は互いの存在を強く意識したに違いない。メンデルスゾーンは、晴れがましい活動をおそらくは故意に避け、王の個人的な委嘱にこたえながら、ライプツィヒ音楽院創設に対する支援の交渉にあたった。1843年4月に開校されたライプツィヒ音楽院は、教授陣にシューマンやダーフィト、モシェレスらを迎え、高い評判を得た。メンデルスゾーン自身も作曲とピアノを教えた。

 このように、1840年代のメンデルスゾーンは指揮者、演奏家、指導者として多忙を極め、心身ともに疲労を重ねたようだ。1844年にベルリンを去った後、ライプツィヒへと直接戻らず、妻の実家のあるフランクフルトとその近郊の温泉保養地バート・ゾーデンで1年間を過ごしたのは、公の音楽活動からしばらく離れたかったからであろう。この静養中の代表作として、有名なヴァイオリン協奏曲(Op.64)、《6つのオルガン・ソナタ》(Op.65)が挙げられる。

 1845年晩夏から、メンデルスゾーンは再びライプツィヒに定住する(この時から没するまでを過ごした住居が、1997年以来、「メンデルスゾーン・ハウス」という記念博物館になっている)。ゲヴァントハウスにも復帰するが、体力的な限界を感じ、それまで彼の代役を務めていたニルス・ゲーゼと仕事を二分した。その一方で、オラトリオ《エリヤ》(Op.70)の作曲に打ち込み、1846年8月、バーミンガム音楽祭にてこれを初演している。ライプツィヒでは、1846年秋からの演奏会シーズンもゲーゼと交替で指揮したが、1847年3月をもってゲヴァントハウスを勇退した。ライプツィヒを理想的な音楽都市に発展させてきたメンデルスゾーンだが、作曲により多くの時間を割きたいと決意したようだ。

 それでも、彼の多忙な演奏活動は続いた。1847年4~5月に10回目のイギリス旅行を行い、《エリヤ》の改訂稿を各地で上演したほか、ヴィクトリア女王夫妻臨席の大演奏会や、室内楽演奏会、オルガン独奏会など、過密スケジュールをこなした。疲労を抱えてライプツィヒへと戻る途上、立ち寄ったフランクフルトにて、最愛の姉ファニーの急逝の報に接し、大きな衝撃を受ける。彼女は1847年5月14日、ベルリンの自宅にて日曜音楽会のリハーサル中に突然倒れ、その日のうちに息を引き取ったのだった。意気阻喪した彼は夏、家族とともにバーデン・バーデン、そしてスイスへと療養に出掛けた。雄大な山々を歩き回り、美しい風景を水彩画に描くうちに、少しずつ慰めを得て、作曲を再開する。この時に取り組まれた《3つのモテット》(Op.69)の澄み切った美しさ、弦楽四重奏曲 ヘ短調(Op.80)の激しい感情の表出には、彼の新しい境地が感じとられる。加えて、オラトリオ《キリスト》(Op.97)とオペラ《ローレライ》(Op.98)の作曲も始められたが、これらの大作は未完に遺された。

 ライプツィヒに戻ってからも、作曲の続行や出版の準備に意欲を燃やしたが、10月9日に突如発作を起こして倒れた。一時的に小康を取り戻したものの、10月末から危篤に陥り、11月4日木曜日、午後9時過ぎに息を引き取った。最盛期の真只中、38歳の若さだった。直接の死因は脳卒中だが、過労と心的ストレスが重なったと考えられる。11月7日にパウリーナー教会にて行われた葬儀には、1000人以上が参列したという。自宅から教会への葬送の列では、シューマン、モシェレス、ゲーゼ、ハウプトマン、ダーフィト、リーツ、ヨアヒムが先頭を歩み、「葬送行進曲」の通称がある無言歌(Op.62/3)がモシェレスの管楽編曲によって奏された。葬儀後、遺体は特別列車によって搬送され、翌8日、ベルリンの聖三位一体教会の墓地内、両親と姉の傍らに埋葬された。全世界が彼の死を悼み、ライプツィヒ、ベルリン、フランクフルト、ヴィーン、ニューヨークをはじめ、各地で追悼演奏会がしばらく絶えることなかった。

  2 メンデルスゾーンとピアノ

 メンデルスゾーンは存命中、ショパンやリストと並ぶピアノの名手として高い評価を受けていた。肖像画からも窺いとれるように、彼は細身で(身長は約168センチ)、手も特別に大きくはなかったが、その演奏は華麗で力強く、表現力に富み、厳格なテンポ、強靱な指、手首のしなやかさが特徴だったという。自作のほか、バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバーらの曲を頻繁に演奏し、当時の慣習であった即興演奏の腕前も見事だった。独奏のみならず、室内楽のパートナー、協奏曲のソリスト、歌曲の伴奏者として絶えず引っ張りだこだった。

 公の演奏会だけでなく、彼はプライベートでも好んでピアノを弾いた。一日の終わりにひとり静かにピアノを奏でることを彼はとりわけ愛した。楽器との対話を通して、その日の疲れを癒していたのだろう。彼はまたしばしば、完成したばかりの自作を家族や友人にピアノで弾いて聴かせた。管弦楽曲やオペラなどの大編成作品であっても、彼はピアノで的確に表現することができた。親しい仲間が集まった時には、自発的にピアノを弾き、多様なアンサンブルを主導した。ピアノは常に彼とともにあり、彼の音楽の根底を支える楽器だった。

  3 メンデルスゾーンの楽器

 少年期のメンデルスゾーンの家には、3台の鍵盤楽器があった。ひとつは、ストラスブールのジルバーマン製の小さなクラヴィコードで、母レアが結婚前から所有していたものである。1835年、ライプツィヒ赴任時にメンデルスゾーンが譲り受け、その後、没するまで仕事部屋に置いて作曲に使った。もうひとつは、1810年頃のオーストリア製フォルテピアノである。1821年の肖像画では、この楽器を弾く少年メンデルスゾーンの姿が描かれている。3つめは1816年、パリへの家族旅行の際、マリ・ビゴに薦められて父アーブラハムが購入したブロードウッドである。後二者は1830年代には古びて、調子が悪くなったらしい。

 1832年、今や人気ピアニストとしてヨーロッパ中に名声を馳せていたメンデルスゾーンは、エラールのロンドン支社から最新のフォルテピアノを贈られた。彼はこれをとても気に入り、1838~39年の変わり目にはまた新たなエラールを自宅用に入手した。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏会でもこれをしばしば用い、自作のピアノ協奏曲第2番(Op.40)やベートーヴェンの月光ソナタなどを弾いている。一方、ピアノ三重奏曲第1番(Op.49)の初演時には、クララ・シューマン所有のグラーフを借りて演奏した。クララは、メンデルスゾーンのエラールは立派で強靱だが、弾きにくいと評している。同様のことを母レアや姉ファニーも1832年のエラールについて語っているので、当時のエラールを弾きこなすには、一定のテクニックと体力が必要だったのだろう。

 裕福な家庭に生まれ、若くして楽壇の中心人物となったメンデルスゾーンは、最先端の楽器すべてに通じていたといってよいだろう。そうした中、とりわけエラールを好んだのは、最新式のダブルエスケープメントに感激したからだと推測される。とはいえ、知人や親戚にグラーフを薦めるなど、柔軟な姿勢を示したので、彼を特定の楽器メーカーに結びつけるのは早計である。

  4 メンデルスゾーンの作品

 メンデルスゾーンは38年の短い生涯において、750曲を越える作品を作曲した。そのうち、存命中に出版されたのは、Op.72までの厳選された作品といくつかの小品にすぎない。彼の没後、遺族や知人の音楽家たちが中心となり、さらに50曲、すなわちOp.121までの作品を出版した。1870年代に編纂されたいわゆる「旧メンデルスゾーン全集」には、Op.番号なしで出版された小品も含め、156曲が収められている。そしてつい最近まで、これら156曲が私たちの知るメンデルスゾーンの「全」作品だったのである。第2次世界大戦後、知られざる作品が次第に発掘され、その一部が出版されても、大きく事態を変えるには至らなかった。

 1997年、メンデルスゾーン没後150年に始まった「新メンデルスゾーン全集」は、文字通り彼の全作品を刊行しようとする初めての試みである。年2巻のペースでこれまで順調に刊行を進めており、没後200年の2047年には全集が完結する予定である。完結に先駆けて、生誕200年の2009年には「メンデルスゾーン作品総目録 Mendelssohn Werkverzeichnis」(MWV)が出版され、計778曲の作品データが収められた。778曲には断片的スケッチや散逸作品も含まれる。この目録では、編成や曲種によって作品が26に分類され(AからZまでのアルファベットにより識別)、各分類内は作曲年代順に作品が並べられている。すなわち、ピアノ独奏曲はU1-199、ピアノ連弾曲はT1-4、2台ピアノ曲はS1-2、ピアノを含む協奏曲はO1-2と4-13、ピアノを含む室内楽はQ1-34、ピアノ伴奏付き独唱曲はK1-129、同二重唱曲はJ1-12、同合唱曲はE1-2というように。さらに、自作の管弦楽曲や室内楽曲のピアノ編曲(連弾および独奏)も挙げられている。

 「歌曲王シューベルト」、「ピアノの詩人ショパン」、「オペラの巨匠ワーグナー」というように、ロマン派の作曲家の多くは、ある特定のジャンルに集中して創作を行ったが、メンデルスゾーンは宗教曲、合唱曲、重唱曲、独唱曲、劇音楽、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲と、あらゆるジャンルにバランスよく作品を遺したのが特徴である。とはいえ、彼の創作の中核は間違いなくピアノにあった。メンデルスゾーンが作曲したピアノ曲は約200曲。全体に占める割合は4分の1弱だが、その他、ピアノを含む管弦楽曲や室内楽曲、ピアノ伴奏付きの歌曲などを含めると、作品総数の半数を越える。

  5 メンデルスゾーンのピアノ独奏曲概観

 メンデルスゾーンのピアノ曲は決してマイナーではない。無言歌に並び、《ロンド・カプリッチオーソ》や《17の厳格な変奏曲》など、ポピュラーな作品がいくつかすぐに思い起こされよう。「スコットランド・ソナタ」の異名をもつ《幻想曲 嬰ヘ短調》や、《6つの前奏曲とフーガ》の第1曲 ホ短調も、ピアノのお稽古で取り上げられる機会が比較的多い。

 しかしその一方で、彼のピアノ曲の全体像があまり知られていないのも事実である。約200曲のピアノ曲は、メンデルスゾーンの音楽史上の位置を反映して、①古典派の伝統を引き継いだソナタ、②バッハの影響を色濃くみせる前奏曲とフーガ、③名人芸的な要素の強い変奏曲や、④綺想曲、幻想曲、スケルツォ、練習曲、⑤さらには、無言歌に代表される性格的小品など、多岐にわたる。以上5つに分類して概観を試みよう。ただし、これらの分類はあくまで便宜上のものにすぎない。以下で確認するように、彼のピアノ曲の中には、伝統的なジャンル区分に収まらないものも多いからである。

①ソナタ
 メンデルスゾーンのピアノ・ソナタとしては、従来、Op.6のホ長調(1826年作曲・出版)、Op.105のト短調(1821年作曲、1868年出版)、Op.106の変ロ長調(1827年作曲、1868年出版)の3曲が知られてきた。いずれも10歳代の少年の作品とは思えない骨太の構成をもつ大作である。Op.番号の近さから、105と106が組のように誤解されることもあるが、上述したように、メンデルスゾーンが存命中に出版したのはOp.72までであり、没後出版となるOp.73以降は作曲順とは何ら関係ない。むしろ、1826年作曲のOp.6と翌年作曲のOp.106こそ対として捉えるべきである。ベートーヴェンの最晩年にあたるこの時期、若きメンデルスゾーンはベートーヴェンの後期作品から強い影響を受けていた。Op.6の全体を貫くカンタービレな性格はベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタOp.101や110に近く、一方、力強い開始が印象的なOp.106は「ハンマークラヴィーア」、つまりベートーヴェンのOp.106に意識的に倣っている。なお、同時期に作曲された弦楽四重奏曲 イ短調(Op.13)(1827年作曲、18年出版)も、循環形式、歌謡主題、器楽レチタティーヴォの使用において、ベートーヴェンから大きな影響を受けている。

 メンデルスゾーンはそのほか、1820年にイ短調、ホ短調、ヘ短調の3曲のソナタを、1821年にホ長調のソナチネを、1823年に変ロ短調のソナタを作曲している。これらは長いこと自筆譜のまま眠っていたが、近年、出版され、一部はCD録音もある。こうしてメンデルスゾーンが生涯に完成したピアノ・ソナタは7曲(加えてソナチネが1曲)となるが、いずれも1820年代の成立であることが注目される。古典派的な性格の強いピアノ・ソナタから、よりロマン派的な新しいジャンルへと、彼が後半生に向かったとも考えられるからである。一方、室内楽の領域では逆に、古典派的なソナタは後期になってから積極的に取り組まれ、ヴァイオリン・ソナタ(Op.番号なし)、チェロ・ソナタ(Op.45, 58)、ピアノ三重奏曲(Op.49, 66)などの名曲が、1838年から1845年にかけて生まれている。

②前奏曲とフーガ
 メンデルスゾーンは10歳頃に作曲の勉強を始め、バッハの孫弟子にあたる師ツェルターのもとで、通奏低音、対位法、フーガなどのバロック的作曲技法を早くに習得した。彼は、ロマン派の作曲家には珍しく、生涯を通して数多くのフーガを作曲し、その編成もピアノやオルガン、室内楽や管弦楽、重唱や合唱のためと幅広い。フーガ的書法を部分的に取り入れた作品はさらに多い。ピアノ用フーガは断片も含めて約20曲遺しているが、存命中に出版したのは、Op.35の《6つの前奏曲とフーガ》(1837年出版)、およびOp.番号なしの《前奏曲とフーガ ホ短調》(1842年出版)のみである。いずれもバッハへの深い敬意と、ロマン派特有の技巧的、感情的高まりが見事に一体となった力作である。とくにOp.35は、同じ年に出版されたオルガンのための《3つの前奏曲とフーガ》(Op.37)、前年に出版されたオラトリオ《パウロ》(Op.36)とあわせて、バッハの絶大な影響の感じられる三連作となっている。1829年にベルリンでバッハ作曲《マタイ受難曲》の復活上演を成功裡に果たし、1835年からはライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの指揮者として活動を始めたメンデルスゾーンが、この時期、ドイツ音楽の伝統の真の継承者として自らを意識的にアピールした作品群と捉えられよう。

 Op.番号なしのフーガは1827年、Op.35のフーガは1831~36年の成立であり、その一方で、前奏曲はいずれも出版直前に作曲された。つまり、メンデルスゾーンは出版に際して、以前に書いたフーガを取り出し、新たに前奏曲を書き加えたのである(Op.35の第6曲のみは新作フーガ)。Op.35のために作曲されたものの、結局は採用されなかった前奏曲が3曲あり、作曲者の没後、《3つの前奏曲》(Op.104a)として出版された。これは、1834~38年作曲の《3つの練習曲》(Op.104b)と組にされている。一般に、前奏曲=バロック的、練習曲=名人芸的と対照的に捉えがちだが、ショパンの例を出すまでもなく、ロマン派の時代に両者は互いに混淆していた。実際、メンデルスゾーンも、Op.35の第1曲ホ短調の前奏曲の初稿に「練習曲」というタイトルを付けていたのである。

③変奏曲
 メンデルスゾーンはピアノのための変奏曲を3曲遺している。ロマン派の時代に華麗で技巧的な変奏曲が大流行していたことを考えると、これは思いのほか少ない数である。また、3曲すべてが1841年6月から8月までの短い期間に次々と作曲されたことも目を引く。
 1841年はじめ、彼はヴィーンの出版社から「ベートーヴェン・アルバム」という楽譜集へ新作を提供するよう依頼された。楽譜集の売り上げは、ボンのベートーヴェン記念像の建立資金にあてるということで、メンデルスゾーンのほか、ショパン、チェルニー、リストら、当時の人気作曲家たち計10名が作品を寄せている。ピアノ曲という以外に条件はなく、メンデルスゾーンは熟考の上、ベートーヴェンへの直接的オマージュではなく、自作の主題に基づく大規模な変奏曲を作曲した。これが有名な《17の厳格な変奏曲 ニ短調》(Op.54)である。「厳格な」という形容詞は、当時の変奏曲につきものの「華麗な」に対するアンティテーゼである。ニ短調による厳粛な主題を多彩な変奏技法で独創的に繰り広げていく、その充実した筆致はまさに円熟期のメンデルスゾーンの真骨頂といえる。半音下行による溜息のモティーフの多用、緻密な声部書法、ダイナミクスの意味深長な対比などが、他に類を見ないシリアスな雰囲気を醸し出している。
 メンデルスゾーンも作品の出来に満足し、彼自身の言葉を借りると、「これまで変奏曲を手がけなかったことを反省して」、《アンダンテ・アッサイ・エスプレッシーヴォ 変ホ長調》(Op.82)と《アンダンテ・トランクィロ 変ロ長調》(Op.83)という2曲の変奏曲をすぐに続けて作曲した。とはいえ、存命中には出版せず(いずれも1850年出版)、その後は再び変奏曲から遠ざかった彼の姿勢には、当世流行のものに対する慎重さが窺える。

④綺想曲・幻想曲・スケルツォ・練習曲など
 この項目では、ロマン派に愛好された自由な形式による独立した器楽曲のうち、名人芸的な要素の強いピアノ曲を扱う。綺想曲(カプリッチョ、カプリッチオーソ、カプリス)、ロンド、幻想曲(ファンタジア)、諧謔曲(スケルツォ)、練習曲(エチュード)などのタイトルをメンデルスゾーンは与えているが、成立の過程で他の名称を用いてもいるので、それぞれを互いに区別することは難しい。

 メンデルスゾーンの綺想曲としては従来、2曲(集)が知られてきた。Op.5の《カプリッチョ 嬰ヘ短調》(1825年作曲・出版)は、彼が出版した最初のピアノ曲である。自筆譜には「スケルツォ」と記されている。Op.33の《3つのカプリス》は1833~35年作曲、1836年出版。第1曲序奏には「幻想曲風に」という発想表示がある。以上に加えて、未出版作品やOp.番号なしで出版された作品、次例のOp.14のように「綺想」を形容詞として付加した作品などがいくつかある。

 Op.14の《ロンド・カプリッチオーソ ホ長調》(1830年出版)は、あまねく知られた名曲であるが、成立の情報が長いこと混乱していた。1824年作曲と記した解説書が今でもあるが、正しくは1830年作曲。ただし、後半のプレスト部分は1828年作曲の《練習曲 ホ短調》の改作である。1830年、メンデルスゾーンはヨーロッパ大旅行の途上、ミュンヘンにて、当時の人気ピアニスト、デルフィーネ・フォン・シャウロートに会う。若く美しく、音楽的才能に溢れた彼女にメンデルスゾーンはすっかり魅せられたようである。一説によれば、彼女は彼が初めて結婚を意識した女性だったという。《ロンド・カプリッチオーソ》も、彼女を想いつつ取り組まれたのであろう。ホ長調による緩徐な序奏は、夢みるように美しい開始が印象的だが、次第に起伏の激しい曲調となる。続く主部はホ短調となり、プレストの速いテンポで、ピアニシモで軽やかに、あたかも妖精たちが舞い踊るかのような夢幻の世界が繰り広げられる。

 初期の習作を除き、メンデルスゾーンは2曲の幻想曲を作曲した。いずれもイギリスと関連をもつことが興味深い。Op.15の《幻想曲 ホ長調》(作曲年代不明)は、実質的には、アイルランド民謡「夏の名残のバラ」による変奏曲である。1830年に同じホ長調のOp.14に続けて出版された。一方、Op.28の《幻想曲 嬰ヘ短調》(1834年出版)は、3楽章からなる幻想曲風ソナタ。メンデルスゾーン自身、「スコットランド風ソナタ」と呼んでいる。1829年のスコットランド旅行前から着想が練られ、旅行後に完成された。異国への憧れが刻印されている。

 1831年出版のOp.16は、《3つの幻想曲あるいはカプリス》という両義的なタイトルをもつ。1829年にウェールズで知り合った美しい3姉妹のために作曲したもので、のどかな自然と楽しい生活を曲想に織り込んでいる。第1曲の自筆譜には「バラとナデシコ」と記されており、姉妹の回想によると、アレグロの上行パッセージは、ナデシコの花が放つ甘い芳香を表しているという。「スケルツォ」と自筆譜に記された第2曲では、咲きほこるトランペット型の小さな花々をメンデルスゾーンが見て、妖精たちがそれらを吹き鳴らすさまを思い描き、表現したという。《ロンド・カプリッチオーソ》の主部と同じくプレスト、ホ短調による。管弦楽のための序曲《夏の夜の夢》(1826年)もまたホ長調/ホ短調であり、メンデルスゾーンにとってこの調は、妖精の世界を描くにふさわしかったのであろう。第3曲の自筆譜には「小川にて」と記されており、小石の上を流れる水のざわめきを表しているという。

 そのほか、メンデルスゾーンはスケルツォというタイトルの曲を3曲、また、ここまで言及した以外に、練習曲というタイトルの曲を断片を含めて5曲遺している。さらに、ワルツを3曲、アンプロンプチュを1曲作曲したようだが、いずれも散逸した。

⑤性格的小品
 性格的小品は、ロマン派の時代に好まれた抒情的な小品を指す。音楽の純粋な鳴り響きだけでなく、何らかの「性格的なもの」を表現するのが特徴である。近年、新発見されたピアノ小品《時は過ぎゆく》(1847年作曲、2002年出版)など、タイトルや具体的なイメージと結びついた曲もメンデルスゾーンは多少遺しているが、彼の性格的小品のほとんどは、言葉では捉えきれない「何か」を伝えようとしている。その代表格が、50曲を超える無言歌である。

 こんにち一般には、各6曲からなる8つの曲集の計48曲が無言歌として親しまれている。しかし、第1~6集がメンデルスゾーン自身の編集によるのに対して、第7~8集は彼の没後に遺された曲を知人らが編集したものだ。とくに第8集の中には、メンデルスゾーン自身は無言歌とは考えていなかった曲も含まれるので、注意を要する。たとえば、第3曲と第5曲の自筆譜には「子供の小品」と明記されている。一方、作曲後に忘れ去られた無言歌もあり、現在まで約10曲が発掘されている。部分的には楽譜も出版され始めており、今後、無言歌の世界は一層広がるであろう。最初の無言歌は、1828年に姉ファニーの誕生日プレゼントとして作曲され、近年まで知られずにいた(1997年出版)。メンデルスゾーンはその後、1829~45年まで無言歌に恒常的に取り組んでいる。

 無言歌の多くは、ロマンチックな表題(タイトル)と結びついてこんにち親しまれている。楽譜やCD、解説書の中には、全曲に表題が付けられているものさえある。しかし、メンデルスゾーンが出版にあたって公にしたのは、〈ヴェネツィアの舟歌〉(Op.19/6、Op.30/6、Op.62/5)、〈デュエット〉(Op.38/6)、〈民謡〉(Op.53/5)の5曲にすぎなかった。その他は、彼の没後に楽譜出版社が通称を採用して、あるいは全く勝手に付けたものである。メンデルスゾーンにとって無言歌―ドイツ語では Lied ohne Worte、フランス語では Chanson sans paroles、英語では Song without words―は、あくまで「言葉のない歌」。言葉によってイメージを固定するよりは、音楽のみによって聴き手の想像力を豊かに喚起しようとしたのであろう。楽譜を一見したところ、いずれの無言歌もシンプルな曲想だが、1曲ごとに感情のひだを丁寧に描き、聴く者の心の奥底に語りかけてくる。その含蓄の深みは、思春期を越えた境地に達している。最初の無言歌が19歳の作であるという事実とあわせて、無言歌は早熟なメンデルスゾーンにとっても「大人の曲」だったと理解してよいだろう。

 さて、無言歌のほかにも、彼は生涯を通してさまざまな小品を作曲し、存命中にOp.7の《7つの性格的小品》とOp.72の《6つの子供の小品》を出版した。Op.7は、1824~27年作曲の初期作品を集めたもの(1827年出版)。バロック的な対位法をロマン派的な小品に取り入れた意欲作である。とくに第3曲と第5曲は厳格なフーガとなっている。一方、Op.72は1847年、メンデルスゾーン没年の出版である。イギリスでの初版には「若い友人たちへのクリスマス・プレゼント」と付記されているが、実際には1842年夏に知人の子供たちのために作曲された。出版の際に6曲が選び出されたが、もう2曲作曲されており、ベーレンライター版(2009年)では、1842年の初稿8曲が付録に収められている。ヘンレの新版(2009年)では、初版ヴァージョンに加えて付録に2曲が収められているが、ヘンレの旧版(1969年)では、7曲からなる異なるヴァージョンが収められているので、楽譜選びに注意を要する。

  6 現代のエディション

 19世紀後半出版のペータース版全5巻(1882年)が長い間、メンデルスゾーンのピアノ曲の一応の全貌を一望する唯一の曲集であった。これは基本的に旧全集を踏襲している。第2次世界大戦後、いくつかの新発見作品や、古くから知られる作品に関しても異稿が出版されたが、全貌に対する位置づけが不明確で、定着するに至らなかった。1997年出版のヴィーン原典版無言歌集に続き、2009年にベーレンライターから無言歌集、変奏曲集(Op.54, 82, 83)、性格的小品集(Op.7, 72)が刊行されるに及んで、ようやく新しい時代が到来したといえる。これらはみな異稿を収めているのが特徴だが、ドイツ語ないし英語の序文と校訂報告を読みこなせないと、きちんと理解して使いこなすことが難しいだろう。2004~09年にイタリアから出版されたスパダSpada版初期作品全集(ピアノ曲11巻、 ピアノを含む室内楽曲2巻)は、解説に誤りが多いのが問題だが、知られざる作品の数々をまとめて入手可能にしたのは画期的である。2009年にはヘンレからも新たに曲集2巻が出版された。旧来の無言歌集(1981年)とあわせて、現時点で最も使い勝手がよく、信頼が置ける楽譜はこのヘンレ版3巻だといえよう。

 新メンデルスゾーン全集のピアノ曲巻の刊行が待望されるが、需要が大きいはずなのに、まだ計画も始まっていない。全貌を把握するのがそれだけ難しい領域だということである。その一方で、新全集では、メンデルスゾーン自身による大編成作品のピアノ編曲の出版が着々と進んでおり、既に《夏の夜の夢》の序曲(連弾)と劇付随音楽(連弾と一部独奏)、交響曲第1番ハ短調(連弾およびヴァイオリンとチェロ付き連弾)、《弦楽八重奏曲》(連弾)、序曲《ヘブリディーズ諸島》(連弾)と序曲《美しいメルジーネの物語》(連弾)が刊行済みである。いずれもたいへんに魅力的な編曲であり、新しいレパートリー開拓のために大いに注目される。
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2009年12月  執筆者: 伊藤 萌子
作品表について
本項の作品リストは、2009年8月に刊行されたライプツィヒ版メンデルスゾーン作品集シリーズの一つで、ラルフ・ヴェーナー Ralf Wehner監修による「メンデルスゾーンの音楽作品における主題系統的目録 Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke(MWV)」の情報をもとに整理されている。この作品目録(MWV)内では、AからZまでのアルファベット26文字を冠したカテゴリに作品を分類後、さらにカテゴリの中で年代順に配置している。これはメンデルスゾーンが自らの作品に作品番号を振る際に、制作年代順になるように注意をはらっていたことを重視した結果である。


当ピアノ曲事典においても、この分類にならい、まず演奏手段によって、「管弦楽とピアノの作品(O)」、「ピアノ独奏曲(U)」、「ピアノ合奏曲(四手連弾はT/2台ピアノはS)」、「室内楽(Q)」に分けており、作曲年代順に配列している。メンデルスゾーンの作品は全750作品と数えられているが、その内ピアノの関わる作品は約200曲ある。
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2007年5月  執筆者: 朝山 奈津子
ドイツの作曲家。ベルリンの富裕なユダヤ系の銀行家に生まれた。姉も音楽家となった。フェーリクスは神童ピアニストとしてデビューし、10才で作曲を始めた。旅行もよくし、特にパリでは老年のケルビーニ、オペラ作家マイヤベーアのほか、リストフンメルなどピアノの名手にも知己を得た。家には絶えず高邁な文化人が出入りし、音楽のみならず哲学や文学の素養が培われた。1829年にベルリン・ジングアカデミーを指揮してバッハの《マタイ受難曲》を上演、大成功を博すも、ジングアカデミーの音楽監督の地位は手に入らず、35年にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となって、ここにようやく活動拠点を見出した。
メンデルスゾーンは作曲の規範を古典派、とりわけモーツァルトに学んだ。
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同時期に誕生した作曲家一覧

作曲家参照 リスト 1811-1886
作曲家参照 モショニー 1814-1870
作曲家参照 ベルリオーズ 1803-1869
作曲家参照 マイヤール 1817-1871
…曲目解説  …コンサート情報  …ミュッセ楽譜情報  …音源情報  [0'0"]…標準演奏時間

登録楽曲一覧

ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)

管弦楽付き作品  [ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)]
ロンド  [ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)]
華麗なロンド 変ホ長調 / Rondo brillant Es-Dur  Op.29 O 10 [1833-34年][10'00"] [piano and orchestra(concerto)]  
カプリス  [ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)]
華麗なカプリッチョ ロ短調 / Capriccio brillant h-Moll  Op.22 O 8 [1832年][10'30"] [piano and orchestra(concerto)]  
オペラ等に基づくパラフレーズ  [ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)]

ピアノ独奏曲

スケルツォ  [ピアノ独奏曲]
曲集・小品集  [ピアノ独奏曲]
7つの性格的な小品 / 7 Charakteristische Stücke  Op.7 U 44, 55, 56, 59-62 [1827年][26'30"]  
6つの子供の小品 / 6 Kinderstücke  Op.72 U 171, 170, 164, 169, 166, 168 [1842-1847年][9'00"]   
練習曲  [ピアノ独奏曲]
前奏曲  [ピアノ独奏曲]
3つの前奏曲 / 3 Präludiumen  Op.104a U 132, 123, 127 [1836年][8'00"] 
変奏曲  [ピアノ独奏曲]
カノン  [ピアノ独奏曲]
フーガ  [ピアノ独奏曲]
ワルツ  [ピアノ独奏曲]
ワルツ / Walzer  U 83 [1831年]
ワルツ / Walzer  U 84 [1831年]
ワルツ / Walzer  U 85 [1831年]
無言歌(ロマンス)  [ピアノ独奏曲]
無言歌集 第1巻 / Lieder ohne Worte Heft 1  Op.19 U 86, 80, 89, 73, 90, 78 [1829-1831年][15'00"]   
無言歌集 第2巻 / Lieder ohne Worte Heft 2  Op.30 U 103, 77, 104, 98, 97, 110 [1833-1835年][16'00"]   
無言歌集 第7巻 / Lieder ohne Worte Heft 7  Op.85 U 189, 101, 111, 190, 191, 155 [1834-1850年][12'30"]   
無言歌集 第6巻 / Lieder ohne Worte Heft 6  Op.67 U 180, 145, 102, 182, 184, 188 [1843-1845年][14'00"]   
無言歌集 第3巻 / Lieder ohne Worte Heft 3  Op.38 U 121, 115, 107, 120, 137, 119 [1836-1837年][15'30"]    
無言歌集 第4巻 / Lieder ohne Worte Heft 4  Op.53 U 143, 109, 144, 114, 153, 154 [1841年][17'00"]  
無言歌集 第5巻 / Lieder ohne Worte Heft 5  Op.62 U 185, 181, 177, 175, 151, 161 [1842-1844年][14'00"]    
無言歌集 第8巻 / Lieder ohne Worte Heft 8  Op.102 U 162, 192, 195, 152, 194, 172 [1842-1845年][12'00"]  
カプリス  [ピアノ独奏曲]
3つのカプリス / 3 Caprices  Op.33 U 99, 112, 95 [1833-1834年][24'30"] 
カプリッチョ ホ長調 / Capriccio E-Dur  Op.118 U 139 [1837年][7'00"] 
性格小品  [ピアノ独奏曲]
無窮動 ハ長調 / Perpetuum mobile C-Dur  Op.119 U 58 [1873年][3'00"] 

ピアノ合奏曲

ソナタ  [ピアノ合奏曲]
ソナタ ニ長調 / Sonate D-Dur  S 1 [1819-20年] [2 pianos 4 hands]
変奏曲  [ピアノ合奏曲]
変奏曲 変ロ長調 / Variationen B-Dur  Op.83a U 159 [1844年] [1 piano 4 hands]  
無言歌(ロマンス)  [ピアノ合奏曲]
7つの無言歌 / 7 Lieder ohne Worte  U 185, 181, 177, 175, 151, 161, 180 [1844年] [1 piano 4 hands] 
オペラ等に基づくパラフレーズ  [ピアノ合奏曲]
種々の作品  [ピアノ合奏曲]

室内楽

ソナタ  [室内楽]
ソナタ ヘ短調 / Sonate f-Moll  Op.4 Q 12 [1823年] [other chamber musics] 
ソナタ ヘ長調 / Sonate F-Dur  Q 26 [1838年] [pf, vn]
ソナタ ロ長調 / Sonate B-Dur  Q 27 op.45 [1838年] [pf, vc]
ソナタ ニ長調 / Sonate D-Dur  Q 32 op.58 [1841年] [pf, vc]
無言歌(ロマンス)  [室内楽]
性格小品  [室内楽]

歌とピアノ

曲集・小品集  [歌とピアノ]
6つの歌 / 6 Duets  Op.63 [pf, vocal] 
6つの歌 / 6 Gesänge  Op.19a [1834年] [pf, vocal] 
6つのリート / 6 Gesänge  Op.34 [1834-37年] [pf, vocal]