19世紀ピアニスト列伝

ステファン・ヘラー 第1回:プロローグ、ヘラーの誕生

2013/01/31
プロローグ、ヘラーの誕生

今日はマルモンテル『著名なピアニストたち』の第三章、「ステファン・ヘラー」の第一回。ヘラーさん(1813/14-1888)には「はじめまして」の方も多いと思います。でもどこかで名前は見たことがあるかもしれません。というのも、日本では全音出版社から練習曲集が幾つかの作品が出版されているからです。

「25の練習曲」作品45
「30の練習曲」作品46
「リズムと表現のための練習曲」作品47

もっぱら中級程度の練習曲作曲家として知られるようになっていますが、ヘラーはショパンの側近の一人として、またシューマンの主催する芸術家サークル「ダヴィッド同盟」の一員として、その作品が正当に評価されていた作曲家のひとりです。そうそう、ずっと年下のドビュッシーも学生時代、ヘラーの作品をピアノの試験で弾いていたのですよ。今日は前口上と誕生の行(くだり)です。ヘラーは略伝著者のマルモンテルとも親しい間柄でした。冒頭に長い前おきをしている様子をみると、友人の公正な評伝を書くのになかなか苦労したようです。

現代の流派に対して圧倒的な影響力を持ち、著しい才能と高い地位によって認められ、ライヴァルから敬意と賞賛を受けるようなあらゆる傑人たち―そうした人物に対して、公正たることは義務である。ステファン・ヘラーのように、美しい個人的な想い出の全てに生き生きとした芸術的感動を添えてくれる特に感じの良い容貌の人に対しては、それは義務を越えて喜びとなる。だがその喜びも、いくらかの困惑を生じ複雑な気持になることがある。どんなに些細な批難も書くまいとしたり、[その芸術家が]何かの流派の影響下に置かれていないように思えてしまう場合。つまり肖像作家が描こうとする芸術家自身とその人物への私的な思い入れに縛られずに書こうとする場合にはそういう気持ちになる。

まさにこれが、私の仕事のデリケートな側面である。この側面はこれから筆者がしようとしているように、たくさんの個人的な情報と忘れえぬ印象を呼び覚ます名前に触れようとするようとするときに生じるものだ。実際には、ベルリオーズがしたように切り抜けることもできる1。彼はかつて友人の作曲家に対して厳格な公正さ...という良識を盾にとり自分が批評するその対象を気まぐれにこき下ろした。そうした時に彼が答えたことには「友人に気を遣わねばならぬのなら、批評などできぬ」、と。これは矛盾であり、逆の考え方としては行き過ぎている。こうしたことが、どうにも避けがたい二つ暗礁である2。しかしながら、私は自信を持って友人の偉大な芸術家を描く筆を手早に進めることにする。私は自身を引きずる誘惑があるにせよ、最も謙虚でありながら全く異論のないこの現代の大家の資質と名声が私を安心させてくれるのだから。

ステファン・ヘラーは1814年5月15日3、ハンガリーのペストに生まれた。ある種の個性的な人物たちと同に別格の才能に恵まれていた彼は、ほかの子どもがまだ音楽のアルファベットをたどたどしく読む年齢のころには早熟の子どもで傑出したヴィルトゥオーゾだったに違いない。彼は大変急速に進歩したので、父は自身の個人的な考えを抑えて息子を音楽の道に進ませ、抗いがたい使命感に従わせることにした。筆者は多くの演奏会に登場したこの若きピアニストの経歴をたどることはしないでおこう。彼の輝かしい演奏の美点が、ヴィルトゥオーゾの戦闘的な生涯へと一歩を踏み出した9歳のころからすでに高く評価されていたということを思い出せばそれで十分なのだ。


図1 青年時代のステファン・ヘラー
【脚注】
  1. あまり知られていないが、ベルリオーズは幾つかの雑誌や新聞上で批評家として健筆を振るっていた。確かに、ベルリオーズの批評は分析的ではありますが歯に衣着せぬ率直な物言いが特徴的。
  2. 「二つの暗礁」とはつまり、気を使って批判できなくなるのも問題であるし、友情を無視して率直に批判しすぎるのもやりすぎだ、という二つの難しさのことを指す。
  3. ヘラーの生没年は諸説ある。彼は自身の誕生日を5月15日と認識していたが、生年については曖昧で、時によって13年と言ったり14年と言ったりしている。また、彼のよき理解者だったド・フォルベルヴィル親子への手紙では、15年生まれだとしている。こうした混乱を招いているのは、彼の出生記録が焼失しているためである。だが、J.-J. エーゲルディンゲルはヘラーが13年生まれであることを示す有力な二つの証拠をその著書のなかで提示している。一つはシュテファンとその両親の洗礼証明書。この書類は1822年5月14日、「9歳の誕生日」の前日に作成されているという。ここから逆算すれば彼は1813年生まれということになる。もうひとつの資料は彼が子どもの頃に通っていたペストの学校の名簿で、1822年のときには9歳、23年には10歳と記されている。この名簿がヘラーの誕生日より前に作成されたのか、後に作成されたのかはエーゲルディンゲルの報告からは定かではないが、何れにせよ、この二つの資料から、ヘラーが13年生まれであると考えるのが妥当とみなされている。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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