<ピティナ50周年を振り返る>1980年代~海外交流編

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2016/06/10
ピティナ50年を振り返る
海外交流編
◆ 海外交流編
①海外と日本のシステムの違いに驚く
72号p11

海外視察旅行を重ねるたびに、教え方の違いだけでなく、教育機関の違い、社会のあり方の違いも見えてきた頃。 パリ、ウィーン、プラハの音楽アカデミー訪問記では「想像以上に我が国の音楽大学とは違っていることに驚き考えさせられました。...いかに音楽教育が社会のニーズにのっとって行われているかお分かり頂けると思います」 (福田靖子・赤平怜子・松口雍子の各先生、72号 p10~12)。またパリ国立高等音楽院の卒業試験を通して、指導教授の進退についての考察や(97号 p2)、アメリカ、オーストリア、ソ連の音楽教育最新リポート特集も(102号 p3-15)。

②国際社会で生きていくために必要な勉強とは?
73号p12顔画像

世界に通用するピアニストを生み出すとともに、音楽を学ぶことによって豊かな奥の深い人生を送れる、そんな子供達を育てたい。この数年後に首相となる羽田孜氏(当時ピティナ会長)はある体験記を寄せている。
「フィリピンで世界の農林大臣が集まる国際会議に代理出席したとき、昼休みやコーヒーブレイクになると、どこからともなく大変美しいピアノの音色が聞こえてきたんです。どんな方がサービスしてくれているのかと思うと、どこかの国の大臣だった。また夕食の時にもサービスのためのピアノ演奏がありました。残念ながら、日本の代表には、首席代表である私自身をはじめ、ピアノを弾けるものにいないし、ピアノについて語れるものもいない。非常に寂しい思いをしました。その時に一層、ただうまいとか、ピアニストとして仕事をしていくということだけでなく、これからの国際社会の中で生きていくには、こういった勉強が何よりも大切だと思ったわけです。」 (73号 p12)

③世界は熱心に勉強している!
74号p5右下画像

日本の指導者も熱心だけれど、海外の指導者もそれはそれは熱心!アメリカのピアノフェスティバルでは朝8時半から夜11時までプログラムがびっしり。そんな海外の同志に対する敬意と共感を込めて。「アメリカ人の指導者たちに『勉強しすぎる』という言葉を、働きすぎるといわれる日本人から進呈したいと思います。」(ブリガムヤング・ピアノコンクール&ピアノフェスティバル視察・福田靖子先生、74号p2~5)

④ピティナっ子が触れた海外の感性
75号p3右上画像

感性と想像力を養うレッスンも。ベラ・シキ先生受講者感想より。「先生はとてもやわらかく、伸びのある音で弾かれます。それが日本にはないような気がしたのです。それから、レッスンをしていると、自然に腕やてくび、肩などが柔らかくなっているのです。ベートーヴェンのときなどは、自分の手が、まるで鳥の羽根で鍵盤の上をすうっとなでているように感じました」 (西沢綾・1978年C級金賞、75号)

⑤会員の海外での活躍

ピティナ会員も海外で活躍!会員番号第1番の杉谷昭子先生が、デュッセルドルフのトーンハレでベートーヴェンの皇帝演奏、また第1回シューマン国際音楽祭に出演したことなどが報告されている(87号 p11)。二宮裕子先生からは、ジーナ・バックアゥワー国際コンクールの審査報告も(96号 p2-5)。

⑥ピティナの活動、海外でも紹介される
105号p22右下画像

ピティナの活動が海外でも報道され始めた。米雑誌「コンテンポラリー・ピアノ・マガジン」で日本のピアノ教育が特集され、その中でピティナも紹介されたそうだ。(119号p13)。また韓国の新聞にも専務理事訪問時の記事が掲載されている(105号p22)

⑦アジアとの交流も広がりゆく

アジア各国でもクラシック音楽教育が進み、福田靖子専務理事が各国へ訪問している。台湾東互大学音楽科設立10周年記念演奏会に招かれた際には、「日本は音楽先進国を自認してばかりいられない」との感を深めたようだ(95号p2「うさぎとかめ」p14)。また中国、韓国、香港などからも学んでいる(105号p2「韓国訪問」113号p3「中国からのお土産」など)

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