<ピティナ50周年を振り返る>1980年代~<コラム>昭和から平成へ

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2016/06/17
ピティナ50年を振り返る
昭和から平成へ
◆ <コラム>昭和から平成へ~戦時下に音楽家が体験したこと
会報2号表紙

1989年1月8日。激動の昭和時代は終焉を告げ、平成時代に入った。終戦後、高度経済成長期を経て豊かな国となった日本では、ピアノや音楽を習うことが教養の一つとしてすっかり定着した。ピティナの歩みは、戦後の音楽教育振興と普及の歩みといってもよいだろう。その歩みを支えたのは、戦後世代だけでなく、戦争を生き延びた世代の功績もある。そこで今回は、戦時下において音楽家がどのような体験をしていたのか、振り返ってみたい。

召集前の送別会で弾いた、ベートーヴェンとシューマン

「昭和19年というと、戦況がますます不利になり、やがて本土では空襲も始まって、音楽の勉強を続けていくのが困難な状態になってきたが、やがてとうとう(井口基成)先生にも召集が来てしまった。送別会に、いつもなら電車で1時間でいける先生のお宅に、空襲で何度も電車を降ろされ、何時間もかかって、お友達とやっとたどり着き、坊主頭になってしまった先生の、ベートーヴェンやシューマンの演奏を、胸の締め付けられるような思いで聞いたあの気持ちは、一生忘れられない。終戦後、今日まで、先生は、演奏に、子弟の教育に、文字通り心身を捧げていらした。我々が常々感じ入るのは、あれだけの先生が、飽くことのない探究心で、絶えず新しい曲に取り組み、勉強をなさることだ。(12号p4 寺西昭子先生「井口基成先生のこと」)」

国民歌謡から、日本歌曲演奏・紹介の道へ

「上野の音楽学校(現芸大)を卒業した頃は、日本は大東亜戦争の渦に巻き込まれていた。学校でヘッセルト先生にお習いしたドイツリートなどはほとんど歌うチャンスもなく、私がはNHKの放送で、国民歌謡と名付けられた「ヤシの実」などの日本歌曲をもっぱら歌っていた。その頃私は平井康三郎先生のお宅と隣組が一緒で、奥様と防空演習をご一緒して親しくさせて頂いたり、ハーモニーを教えて頂いていた。先生は丁度「日本歌曲集」を世に出されて、有名な「平城山」「九十九里浜」「秘唱」などで天才作曲家として注目を浴びていられる頃だった。・・・私はその時先生から、日本の歌手は日本の歌を上手に歌えなければならない。日本の歌手が世界の桧舞台で日本の作曲家の作品を歌うことこそ、最も芸術家として栄光ある仕事だということを強調されたのを伺った。私はこの頃から自分のライフワークを、日本の歌曲を努めて演奏紹介する道を取ろうと、心に決めるようになっていた。(30号p2-3 内田るり子先生「私の歌った初演曲」)」

集団疎開中に慣れ親しんだオルガン

「私が小学校低学年の頃、集団疎開があったのですが、その疎開先に両親がオルガンを送ってきてくれました。それで唱歌の伴奏などを弾いておりました。そのうち戦災も激しくなって、父の実家がある諏訪地方に一家で疎開することになりまして、私も両親の元に引き取られることになったのですが、私はワァワァ泣いてしまいました。普通は親元にもどるといえば喜びますのに、集団疎開でのオルガンのある生活が、とても楽しかったのですね。そして小学校4年くらいでしたか、終戦を迎えまして、1年くらいはピアノどころの騒ぎじゃございませんでしたけれども、世の中が落ち着いて、ピアノを習い始めたのです。(31号p2-4 児玉邦夫・幸子夫妻インタビュー)」

教練服を来て鉄砲を持って、ピアノレッスンに

「・・・よく音楽なんてできたものだと我ながら感心するくらいです。何しろ野外教練というのがありまして、にぎりめしとベートーヴェンのソナタ集の厚いのを背中に背負って、教官にどやされ、その足でピアノのレッスンに行くのですから・・・。汗の臭さと銃の教練服を着て、時には三八式の鉄砲までもってピアノを習うんですから、永井進先生も閉口なさったと思いますよ。もうこんなことは、今の人たちには絶対にさせたくないですね。(32号p2-5 奥村一先生「作曲家の生活」)」

昭和初期に、新聞で音楽会評論

「(--音楽評論が新聞に載るようになったのは)第一次世界大戦後です。世界一流の演奏家を呼べるようになったので、新聞も取り上げるようになり、自然音楽評の欄を設けるようになりました。朝日新聞が初めてでした。(--初めて音楽会の評論を書いたのは)大正15年、ザレスカというロシアの演奏会評で、四百字詰め原稿用紙1枚でした。それから同じ年の暮れから毎日新聞社が継続して演奏会評を載せるようになり、私は毎日新聞の学芸部へ客員として執筆することになりました。それから年間書き続けました。昭和15年頃から山根銀二さんと二人で書くようになりました。でも昭和18年ごろには戦争が激しくなり、音楽会評論どころではなくなり、自然消滅しました。戦後、毎日新聞社に頼んで使ってもらうようになりました。今でいう定年の年でしたので、嘱託という形で事業部と学芸部の仕事をしました。(--音楽教育において大事なのは)音楽は本物をたくさん聞くことです。また分析的な聴き方をしないで、直観力で大きくまとまった聴き方ををすることです。(45号p2-3 野村光一先生の歩まれた道)」

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