<ピティナ50周年を振り返る>コンペティション編~1980年代

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2016/05/31
ピティナ50年を振り返る
コンクール作品編
◆ コンペティション編
① ピアノ指導者の自覚を促す場として
72号p2上画像

ピティナ・ピアノコンペティションは、ピアノ指導者の指導力研鑽のために創設された。2回目で早くもその成果が出始めたようだ。予選審査員長・日下部憲夫先生いわく「...今まで何かと閉鎖的であったピアノ界にとって、全く新しい一途を見る思いです。その実証として、昨年本選会でのハイレベルな演奏を見聞した多くの指導者が、昨年をはるかに上回る多くの生徒を参加させたこと、地方の優秀な指導者の協力によって、参加者のレベルアップに努めたくださったこと、グレード検定によって自分を知る機会を多くの生徒たちが求めたこと等、年輪を増す度に充実した内容をもってこのオーディション及び検定が成長していくことは誰も疑わないでしょう」(72号 p2)

② 増えゆく参加者たち
140号表紙画像

全国統一のコンペティションへの関心は当初から高く、参加者は着実に増えていった。1979年度には予選900名余、本選245人、決勝53人 、その5年後には参加者が大幅増加し、参加総数5145名とある。写真は1988年度表彰式の模様。

③ 当初から四期を学ぶコンクール-レパートリー拡充促す
98号p2題字

コンペの特徴といえば、当初から「四期」を学ぶことにある。あるB級参加者が「4曲も弾くことにびっくりしました」と語っている通り、四期を体系的に勉強することは当時新鮮だったようだ(72号 p4) 。特級は、四期+後期ロマン派 +コンチェルト(年度によって異なる曲指定)であった。またコンクールはより良い学習方法を模索する機会でもある。1960年代から提案されていたことではあるが、楽譜の比較検討はその一つ。さらに「深い読譜力とは何か、学ぶとは何か」についても考察されている(98号p2「学ぶ」)。

④ 採点表の公表
80号p9右下画像

コンペ最大の特徴は、審査員直筆講評と採点表の公表だろう。1983年度には、決勝採点表の公表が会報誌面に紹介された(104号p20-21)。点数制ではなく推薦するか否かという基準だったが、翌年には現在に準じる形で準決勝・決勝の採点表が公表されている (112号 p22-27)。また予選通過ラインについての議論が白熱したこともあった。

⑤ デュオ部門もスタート!

1984年にはエルネスト・ザイラー氏より、「一緒に音楽を奏する」ということはヨーロッパの音楽史上良き時代には常でしたが、日本ではまだあまりなされておりません」としてピティナが連弾部門をしてはとの提案があった(110号p23)。またそれ以前からもデュオ課題曲を作るなどの動きはあったようだ。そして1987年にデュオ部門が初開催!初級~特級までの4段階で、当初は年齢制限やパートナーとの年齢差について条件を設けず、演奏レベルのみを審査対象としていた。「楽しく有意義なピアノ部門学習を発展・普及させるためには、ごく初歩的な段階からアンサンブルの楽しさを体験させることが有効です」。約30年を経て、今ますます注目を浴びているジャンルである。

⑥ 全国およびアメリカ褒賞演奏ツアーも
80号表紙画像

早くからコンペ入賞者の日本全国ツアーだけでなく、アメリカ褒賞演奏ツアーも組まれた。アメリカでは若林顕さんなどが、日本を代表して誇らしく演奏を繰り広げられたことが報告されている(79号p12-1584号p27)。また山本直純指揮・ヤングピアニストによる ピアノ協奏曲のつどいも企画され、若林顕さんなど入賞者が初めての協奏曲体験を緊張しながらも楽しんでいる(78号p13)。入賞者の代表格である若林さんはさらに活躍の場を広げ、 アシュケナージのレッスンを受けたり、日本音楽コンクールやエリザベート王妃国際コンクールでも入賞している(98号p18)。

⑦ 初めて他人の演奏を聞くこと
73号p4右上画像

コンクールを通して、初めて他の演奏をたくさん聴く体験をされた方も多いのではないだろうか。 見学者の立場から、または参加者・入賞者の保護者として、他の人の演奏から学ぶことは多い。そんなルポが会報にも寄せられた。(72号 p573号p4 決勝会会場ルポ)

⑧ 毎年の反省を踏まえて一歩ずつ前進
73号p6画像

審査員はどう聴いたのだろうか?また年々、どのように演奏は変化していったのだろうか?決勝審査員長を務めた 田村宏先生先生のコメントより。「昨年と違って今年は聞いていて非常に嬉しくなりました。予想していたよりもみなさんの演奏が格段に音楽的であったからです 」。また、時代別研究がよくされていた、たたきつけるような音がなくなったという意見も。一方で、音楽の裏付けが少ない、音色感やファンタジーが少ない、歌づくりはあっても音づくりがない、などの課題が挙げられた(73号)。
とはいえ、才能の芽はそこかしこにある。室井摩耶子先生いわく「才能というのは決して一人ポツンと出てくるものではない。数多い広場において、そのベースの広場ががっちり拡がった時、その中から才能がスクスクと出てくるのである。ピティナの数多い級がそれぞれ競っている中に、そのまだ子供子供した演奏の中に、私は自分で音楽を楽しみながら弾き、同時に聴いている人の中に音楽への共鳴を誘い出してくる何人かの才能を見出し、本当に嬉しかったのである」(100号 P21)

⑨ 海外審査員からの刺激
92号p5上画像

毎年、海外より2~3名のピアニストやピアノ教授が招聘されている。1981年度にはアンドレイ・ヤシンスキー先生より、上杉春雄さん(G級・中3) にショパンメダルが授与された。「私は福田先生のお招きで初めてポーランドから日本に参りましたが、その中での一番の喜びは、このコンクールに出席させて頂いたことでした」(92号p5)。
また時には、厳しくも励まされる意見も。ジェイコブ・ラタイナー先生いわく「速いと言っても、実はそこにはいろいろな意味があります。...遅い曲を弾くときもやはりそうで、日本では一つの方法でしか弾かない。ベートーヴェンの緩徐楽章、シューマンやバッハ、現代曲もすべて同じ感情で、同じ弾き方になっている。つまり遅い曲を弾くときとは、ショパンのノクターンを弾くときと同じように弾いているのです。...音楽に感情を込めるとはどこからくるのか、それはいろいろな感情を経験すること、豊かな経験からきます。...よい音楽に耳を開いてください。それ以上に、心を開いてください」(97号p5)

⑩ 海外コンクールから学んだこと
88号p4画像

最先端のレベルを知るには、主要国際コンクールも大いに参考になる。ジーナ・バックアゥワー国際コンクール審査リポート(福田靖子先生、74号p2-5)、 1980年度ショパン国際コンクール・日本国際コンクール視察リポートを含む「コンペティション特集」(88号p3-11)、ヤングピアニストによるショパン国際コンクールレコード試聴感想(92号p13)もぜひご参照頂きたい。

INDEX
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