パリ発ショパンを廻る音楽散歩

01.ポワソニエール大通り27番地 / 七月革命の余波

2008/01/01
ポワソニエール大通り27番地七月革命の余波
クリックで大きい地図(別窓) ポワソニエール大通り27番地
27, boulevard Poissonnière 75002 Paris
地下鉄(メトロ) : 8・9号線Bonne Nouvelle
1831年10月初め-1832年2月
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現存しているアパートの門

最上部にはショパンが1831年から1832年まで住んだと記されたプレートが付されている。
最上部にはショパンが1831年から1832年まで住んだと記されたプレートが付されている。

ポワソニエール大通り
ポワソニエール大通り

今も賑やかなポワソニエール大通り
今も"眠らない"大通り、
ブルヴァール・ポワソニエール

 ショパンの希望に満ちたパリでの生活は、ポワソニエール大通り27番地の5階(フランスの5階は日本での6階!)から始まりました。小部屋が二つという慎ましい間取りでしたが、バルコニーからの眺めは最高で、ショパンは旧友、クメルスキ(※)に宛てた1831年11月18日付けの手紙の中で、自宅のアパートのついてこんな風に語っています。

 「僕はポワソニエール大通り27番地に住んでいる─君が信じられないくらい魅力的な部屋に―素敵なマホガニーの家具付きで、並木道の歩道に面したバルコニーからはモンマルトルからパンテオンまでの、パリで一番美しい景色が見渡せる。皆がこの眺めを羨ましがる。5階までの階段は誰も羨ましがらないけれど。」

※クメルスキ
ノルベルト=アルフォンス・クメルスキNorbert-Alphonse Kumelskiウィーンからパリ へ旅立った際、ミュンヘンまで同行し、ポーランドに帰国途中ベルリンに滞在してい た博物学者

ポワソニエール大通りは2区から9区に伸びる、全長351m、巾35mのブルヴァールと呼ばれる大通り。現在でも劇場や映画館の密集する賑やかなエリアです!

ブルバン・ホテルブルバン・ホテル
Hotel Brebant***
32, Boulevard Poissonniere
75009 Paris France
TEL +33 (0)1 47 70 25 55
FAX +33 (0)1 42 46 65 70
www.brebant-paris-hotel.com
hotel.brebant@wanadoo.fr
メトロ地下鉄 : 8・9号線Bonne Nouvelle

ポワソニエール大通りを挟んで、ショパンがパリで最初に住んだアパートの門のはす向かいに位置するホテル。
5階に宿泊して、ショパンと同じ目線で窓からポワソニエール大通りを眺めては如何でしょう?

七月革命

 ショパンがワルシャワで幸せな幼年期を送っていた1814年以降、パリではルイ18世による、フランス大革命以来の王政が復活していました。ルイ18世というのは、大革命でマリー・アントワネットと共に処刑されたルイ16世の弟で、かつてプロヴァンス伯と呼ばれていた人物です。1789年の大革命によって共和制に移行したフランスは、ナポレオンの出現によって軍事独裁政権となります。ナポレオンは縦横無尽に活躍し、ヨーロッパ中を征服しますが、次第に勢力を弱め、周囲の圧力によって退位を迫られます。ナポレオンによって混乱したヨーロッパの後始末をするために、近隣諸国が開いたのがウィーン会議です。この会議によってフランス国内を再生するために諸外国から支持を受けたのが、ブルボン王朝直系のルイ18世による王政の復活でした。

 ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布して立憲君主制を敷き、大革命時に追放された貴族の復帰を助ける一方、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取ることで国内の安定に努めましたが、後継者と目されていた弟のアルトワ伯の次男、ベリー公の暗殺事件をきっかけに、亡命貴族エミグレによって組織されていた過激王党派ウルトラが反動政策を推し進め、絶対王政を復活させてしまいます。

 さらに、1824年にルイ18世の後を継いだ弟のアルトワ伯がフランス王・シャルル10世 を名のり、まるで大革命以前の状態に逆行するような貴族や聖職者を優遇する政策を とり始めて、新興ブルジョワと呼ばれる中産階級や一般市民の反感を高めます。シャルル10世は、それに拍車をかけるように1830年の7月に出版の自由を停止し、大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発しました(七月勅令)。この勅令に反発した民衆が立ち上がって3日間にわたる武装蜂起によって王政を倒したのが、七月革命です。ショパンがポーランド出国を目前に控えた年のことでした。

Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple
Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple
『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ 1830年
ルーヴル美術館所蔵

 この結果、国王シャルルはイギリスに亡命し、共和派の反対を押しきって大資本家に支持されたオルレアン家(ブルボン家の分家)のルイ=フィリップが即位して立憲君主制の七月王政を成立させます。

 「フランス人民の王」と称したルイ・フィリップは、実質的にはブルジョワを擁護する王で在った為、市民たるブルジョワジーの不満は徐々に解消されていきます。このフランス7月革命の影響は各国に波及し、ポーランドではロシア帝国による支配に対しての不満という形で民族主義者や自由主義者がワルシャワで蜂起(十一月蜂起)して革命政府を樹立し、1831年1月に独立を宣言しましたが、同年9月にロシア大軍によって再び占領され、以後、ポーランドの民族 運動は徹底的に弾圧されることになりました。ショパンが、パリに向かう途中のシュ トゥットゥガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その衝撃から「革命」のエチュードを作曲したことは有名なエピソードになっています (PTNAピアノ曲事典参照)。
七月革命を機に、富に加えて政治的権力も得た資本家たちは、土木や鉄道などの国家的利権を私物化して莫大な資本を築き、パリはさまざまな文化人の集まる「芸術の都」として輝き始めます。

 ショパンが到着した頃のパリは、このように七月革命の余熱がまだ残り、あらゆる主義や主張が錯綜し、至るところで暴動が発生する一方、人々は自由への期待でいっぱいで、最高の贅沢と悪徳の氾濫する蠱惑的こわくてきで華やいだ、芸術家アーチストの創造意欲を掻き立てるには格好の都市でした。

 それに加え、パリでは現在でも居住地が階級によって分かれていますが、当時、ショパンの住んだアパートは、西のマドレーヌ寺院から東のサン・ドニ門を結ぶ、大きな並木道と遊歩道を備えたグラン・ブルヴァールと呼ばれるパリでもっとも賑やかな大通りのひとつに面し、西に向かえば銀行家や実業家の住む、流行の最先端をいくカフェや大劇場の集まる区域、東に向かえば職人や労働者の住む、芝居小屋が立ち並ぶ庶民たちの歓楽街という、中産階級と労働者階級の境に位置する刺激的なエリアでした。

 ショパンはこのポワソニエール大通り27番地を出発点に、スターダムへの階段を昇り始めます・・・自室5階へのアパルトマンの階段と共に!


中野真帆子
なかのまほこ◎4歳よりピアノを始め、10歳の時、NHK教育TV「ピアノのおけいこ」にレギュラー出演。ウィーン国立音楽芸術大学を経て、パリ・エコールノルマル音楽院コンサーティストを審査員全員一致で修了後、カナダ・バンフセンターにて研鑽を積む。ロヴェーレ・ドーロ国際音楽コンクール優勝をはじめ、アルベール・ルーセルピアノ国際音楽コンクール第4位、及びルーセル賞、マスタープレイヤーズ国際音楽コンクールピアノ部門第1位など、ヨーロッパ各地のコンクール入賞を機に、ソリスト・室内楽奏者としてアジア・カナダ・ヨーロッパの音楽祭に参加。帰国後はフェリス女学院大学音楽学部で後進の指導にあたる傍ら、国内外での演奏、各種コンクールの審査員、TV・ラジオへのメディア出演、音楽雑誌への執筆・翻訳など、多方面で活躍し、2016年秋に国連帰属の世界公益同盟より日本人として初めてのメダル受章。著書に『ショパンを廻るパリ散歩』(2009)、翻訳書に『パリのヴィルトゥオーゾたち』(2004)、『ショパンについての覚え書き』(2006)、録音にキングインターナショナルより『LIVE』(2015)、『ロマンチック・タイム』(2016)。◆ Webサイト
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