ルイのピアノ生活

第52回 バッハ嫌い?/曲:J.S.バッハ プレリュード 嬰へ短調(WK II)

2007/10/12
♪ 演奏
J.S.バッハ:プレリュード 嬰へ短調(WK II)  動画 動画:(4,08s)
 

今回の演奏はバッハです。
バッハを演奏するにあたって、いつも直面する疑問にあえて気軽に触れてみようと思います。
「バッハの音楽は感情を込めて弾いてはいけないのでしょうか。」

バッハは最も尊敬する作曲家です。音楽家からも、音楽愛好家からもよく「一番好きな作曲家」に挙げられ、ジャズやアカペラに編曲されても原曲の味わいが失われない、唯一の作曲家だと思います。バッハ作品の演奏では「神」のような存在、グレン・グールドの功績もあり、バッハはひとつの「ブランド」のような最強の存在の作曲家でもあると思います。
その一方、バッハほど苦手意識を持たれている作曲家はいないのではないでしょうか。学生のレッスンでも、「ではバッハを」というと一瞬固まってしまう人もいるほどです。はっきり「嫌い」という人も居て、驚くと同時にとても悲しいです。最も美しい、偉大な曲を残した作曲家なのに。なぜでしょうか。つまらない、堅苦しい、または「こう弾かなくてはいけない」「感情を込めてはいけない」「頭で弾かなくては」「勉強」と言ったイメージ。古い時代の作曲家だから、チェンバロやオルガンのために書かれたから、ピアノでも強弱をつけずペダルもなしに弾くべきでしょうか。

私にとって、バッハの音楽を聴いて最初に思い浮かぶ言葉は「祈り」です。バッハはよく神や教会のための曲を書いていましたが、その通り、ひとつひとつの音が神への祈りの言葉のように聞こえる事があります。「祈りの音」を心を込めて弾く事は先程のアカデミックなイメージからは遠いような気がしますが、自分には一番自然に感じられます。

私の生徒さんのひとりが「バッハの音楽は白黒写真のように聞こえる」と言った事があります。かつらを被って少々厳しい表情をしたバッハの肖像画を見ると、確かに堅苦しい雰囲気が伝わってきます。でもいくら古い時代の作曲家と言っても彼の人生は決して白黒写真ではなかったはずです。それに教会という場所は表面上は暗くて、静かで厳粛ですが、実際、教会を訪れる人々の祈りには「悲しみ」や「喜び」や「愛」や「人生」「死」など様々な感情やドラマが渦巻いています。それにあの鮮やかなステンドグラスを見てください!バッハの音楽=白黒写真では決してないはずなのです。

私の師であるヴィレム・ブロンズ先生は今年12月、白寿ホールでバッハの平均律第1巻全曲を演奏します。前回の来日の際のコンサート(平均律第2巻)に継ぐ第2弾です。前回も、繊細にして大胆な感情表現や、また「喜び」「悲しみ」「苦しみ」・・・それぞれの調性(例えばd-mollは深い悲しみを表す等)・フレーズ(例えば下降する短音階は哀しみを表す)の持つ意味が伝わってくる素晴らしい演奏でした。もちろん楽曲の分析が重ねられ、深い知識に基づいていることは言うまでもありませんが、印象として最も残るのは曲の感情やメッセージといった部分でした。時にはとてもロマンティックでカラフルに響くバッハの平均律がとても新鮮でした。

バッハの曲は感情を込めて弾いてははならないのでしょうか。
でもバッハが生きていたら、果たしてそんな指示を出したでしょうか。逆にどうしてベートーベンの情熱や、ショパンの哀しみ、シューマンの憂鬱は表現されて当然なのに、自分の曲は「感情を殺して」弾かれなくてはならないのだろうか、と疑問を持つような気がします。確かにチェンバロやオルガンのために曲を書いたが、当時もし現代のピアノのような素晴らしい鍵盤楽器があったなら、その楽器の特性を最大限に生かして音楽を表現したのではないでしょうか。

バッハの音楽の特徴は普遍性だと感じています。
シューマンやショパンはピアノを使って、いかにもピアノの響きでピアノの為に作曲していた事がわかりますが、一方バッハは例えばチェンバロで作曲しても、その響きにはあまり執着しなかったと思われます。なぜかといえば時代がかなり合理的で、「明日のミサはフルートとバイオリンが2人だからこんなアレンジで・・」という具合に作曲されていたので、その結果、色々な楽器で聞いてもその形(響き・音)よりは中身(音楽そのもの・メッセージ)が残るような、オープンで柔軟性のある曲になったのでしょう。

だからこそどんな楽器で聴いても、たとえジャズでもアカペラでも、現代風アレンジでも、形は変わっても一番重要な「音楽の味」の部分が生きていて、それぞれ魅力的な楽曲になっています。彼は天国で自分の原曲がいろいろな形にアレンジにされるのを聴いて膝を打って喜んでいるかもしれません。逆に「当時チェンバロのために書かれたのでピアノでもチェンバロのように弾きましょう」と音楽の可能性を狭めてしまうのは、バッハの音楽の本意ではないように感じます。

アカデミックな方向を極めるのもひとつの弾き方だと思います。でも、また違った角度からのアプローチも、本当はバッハ自身が望んだ事かも知れません。
結局は音楽として心に響くものを残す事が、作曲者も、弾き手も、聴き手も、きっといちばん満足できる事ではないでしょうか。

ルイ・レーリンク


ルイ・レーリンク

オランダ出身。7歳からピアノを始め、15歳で音楽院入学。アムステルダム・スヴェーリンク音学院に於いてW・ブロンズ氏他に師事する。1996年音楽活動の為、日本に移住。「肩の凝らないクラシック」をモットーに各地で通常のコンサートから学校や施設のコンサート、香港等海外でも公演。九州交響楽団との共演、CD「ファイナルファンタジー・ピアノコレクションズ9」の演奏と楽譜監修を行うほか、CD「夢」をリリース。個人/公開レッスンや音楽講座を行い、ピアノ・音楽指導にも意欲的である。洗足学園音楽大学非常勤講師、洗足学園高等学校音楽科講師として、「演奏法」の授業 、演奏家を目指す生徒のための「特別演奏法」の授業、ピアノレッスンを受け持つ。

NHK/BSテレビ「ハローニッポン」、「出会い地球人」
TBSテレビ「ネイバリー」、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」他出演。

ピアノ演奏法のページ : http://www.senzoku.pianonet.jp も作成中
演奏者のホームページ http://www.pianonet.jp

【GoogleAdsense】
ホーム > ルイのピアノ生活 > 連載> 第52回 バッハ嫌い...