海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

ロシアのピアノ教育から学べること(1)理論に基づいた自由さ―奈良井巳城先生

2015/07/17
ロシアのピアノ教育から学べること
No.1:奈良井巳城先生インタビュー

今年のチャイコフスキー国際コンクールではファイナ
リスト6名中4名がロシア勢と、圧倒的な強さを見せた。
彼らはどのような教育を受けているのだろうか。
ピティナ・トークコンサート等でも人気を博している奈良井巳城先生は、国立音楽大学首席卒業後にモスクワ音楽院に留学し、ロシアでは指の鍛え方が違うこと、鍛えた上で楽譜の読み方が違うことを思い知ったそうだ。さらに「音楽はこんなに自由だったのか!」と理論に基づいた自由さを知ったという。レフ・ナウモフ先生のレッスンから現在のご指導に至るまで、詳細に語って下さった。


一音に対するこだわり
モスクワ音楽院ではどのように学んだのでしょうか、まず留学当初の状況を教えて下さい。
奈良井先生

モスクワ音楽院のレフ・ナウモフ先生門下で3年間学びました(1997年~2000年)。念願叶って先生に入門を許可され、音楽院試験にも合格し、嬉しくて仕方なかったのですが、入ってからが大変でした!ロシアではまず指の鍛え方が違うこと、鍛えた上で楽譜の読み方が違うことを思い知りました。

ナウモフ先生はネイガウス派で、音色やイメージづくりを大事にする伝統があります。タッチに関してはほとんど言いませんが、どの音も明確なイメージがないと「もう帰れ!」と(笑)。もう一度自分で仕上げてくるか、アシスタントと一緒に音色を作ってきなさいと言われます。アシスタントはタッチ作りが基本ですが、3人とも現役ピアニストなのでタッチも音の鳴りもさすがです。「オクターブのその音はこんなふうに作るのか」と、横で弾いてくれるのを見様見真似でやっていたのが最初の頃です。

ナウモフ先生はイメージ作りを厳しく追求されるのですね。どのようにそれを伝えてくるのでしょうか。

たとえばドとミソを交互に弾く伴奏型があるとしたら、「このドとミソはどんな意味があるのか?このドと次のドの意味はどう違うのか?上に乗っているメロディラインに対して2回目のドはどんな感じか」等々、一音一音どんな意味があって弾いているのかを問い詰められました。アシスタントにはそこまで問い詰められなくても、2拍目くらいで止められて何度も弾かされ、1時間で1小節しか進まないという時もありました。ナウモフ先生が言葉で説明して下さることもありましたが、結局同じ音が出なければ、出るまでやらされます。

それは先生の解釈に近づけるようにということでしょうか?

その時はその1~2小節はいわれた通りに音色を作りました。「とりあえず今は明確なアイディアがないから、真似をして習得しなさい」ということです。ただ翌週のレッスンで、自分の解釈で自分のイメージができていれば、先生にいわれた通りに弾かなくても何も言われませんでした。ちなみにネイガウスは生徒であったリヒテルに対して一目置いていて、「彼は天才だから何も口出ししない」と言っていたそうです。

自由にイメージを創る、自分で組み立てる面白さ

ある時面白いことがありました。アシスタントと一緒に音色と印象を作って、それを自分のものにした上でナウモフ先生に聴いて頂いたら、先生が横で変な音を弾いているんです。そして「今楽譜に丸をつけたからその音を繋いで来なさい」と。先生が書き込んだ譜面を見ると、今まで見たことのないような位置(の音符)を繋いでいたのです。メロディラインから下の和音の中の音へ、そこからまた思いがけない位置へ・・・でもそれを歌いこんでみるとすごく美しいんですよ!「こうやって楽譜を読み込むのか!!」と目から鱗でした。それまでは旋律、伴奏、ハーモニーくらいしか着目していませんでしたが、あらためて譜面を見て、「ここを繋いだらどうなるだろうか、この旋律に対してこう歌ってみたら面白いかもしれない」と、色々試すようになりました。

それは面白いですね!ナウモフ先生の瞬間的な閃きなのか、もともとお持ちのアイディアなのでしょうか。音楽の構造を逸脱しない範囲ですよね。

あまり逸脱すると逆につっこまれて「それは意味が分からない。説明しなさい」といわれます。ナウモフ先生にどのくらいのアイディアをお持ちなのかを聞いたことがあります。先生はピアノ科と作曲科を卒業しているので、アイディアは本当に豊富で、何でも来い!という感じですね。

私自身もそれまで割と自由に弾いていたものの、そんな自由度なんてものじゃない。「音楽はこんなに自由だったのか!」と大きな気づきがありました。それも決していい加減ではなく、しっかりとした理論に基づいた自由さなのです。

音楽の捉え方が幅広いのですね。

ええ。でもそんなに幅広いのに、ナウモフ先生の譜面を見ると、A、A' 、B、B'、中間部・・など記号が細かく書いてあります。こんなことは当たり前だから自分で考えなさい、アナリーゼは自分で事前にしてきなさい、というのが無言で伝わってきます。ロシアでは8小節くらいの子どもの作品から、タッチ作り、フレーズ作り、曲の構成など、全てを学んでいます。和声に関しても、教科書の内容は日本とあまり変わりませんが、和声が曲の中でこう生きていて、どういうふうに曲が組み立てられているのか、という話をしてくれます。

ナウモフ先生のレッスンを通して、自分で組み立てる面白さを実感しました。ロシアでは作曲とピアノを学んでいる人が多く、リサイタルの最後に自作曲や編曲を披露することも多いです。ミハイル・プレトニョフやウラディミール・ニコラーエフなどの流派から、今は他の流派も含めてその流れが受け継がれていますね。デニス・マツーエフやダニール・トリフォノフ(2011年度チャイコフスキー1位・グランプリ)なども作曲をします。

最近の国際コンクールでも作曲するピアニストが増えていますが、自分で一から創造していくからこそ様々な部品が必要ということが分かるのですね。美術やバレエも、テクニックをすべて学んで自分で創り出すという歴史がありました。

だからこそ、ある作品に接した時に、「このように組み立ててあるから、自分はちょっと変えてみよう」ということが容易にできるのですね。

立体感ある音色を創るには
モスクワ音楽院正面

あとロシアでは音色に立体感が求められます。一音ずつどんな音色でタテのバランスを創っていくのか、和音を弾いた時にどんな印象になるのか。のっぺりとした音色にならないためには、タッチも音量も慎重に考えなければなりません。そこまで立体感を考えなくてはいけないと知ったのは、ロシアに留学してからです。

打鍵のスピード、角度、力の入れ具合で、一つの打鍵でも震動が変わることが研究で解明されていますが、ロシア人は耳や肌で「こうしたら音が変わる」ということを敏感に察知しているのです。どんな音色が欲しいかは人それぞれで、打鍵も様々ですね。トリフォノフは白い手袋をはめて練習していますが、それを外して弾くと鍵盤に対する敏感さが猛烈に生まれます。だからあれだけ美しいピアニシモになるんですね。
どんなに音が小さくても伸びるのは倍音の違いです。同じ10デシベルの小さな音でも、上からトンとつくのと、上にはじくのと、手前に弾いてひくのとでは周波数が変わります。すると人間が聴く時の印象が変わるのです。

小さい頃に、敏感な耳に連動したテクニックをつけることが大事ですね。トリフォノフの場合はタチアナ・ゼリクマン先生、あるいは地方の先生かもしれません。ロシア全域にそのような先生が沢山いらっしゃいますね。

結局は"1時間1小節"のレッスンの積み重ねですね。先生の耳が敏感だからこそ、横にいる生徒の耳をどんどん敏感にさせていく。そして先生と対等な耳になった時、ようやく「いいよ」と言ってくれる。モスクワ音楽院だけでなく、グネーシンにもいい先生がいらっしゃいますね。

またロシア人の骨格は世界一美しいと言われるくらいしっかりしていますが、それを幼少の頃から鍛えているので、筋の力が強いです。筋が強ければまっすぐ伸ばしたままで、強いタッチ、引っ張るタッチなど、いかようにでもタッチができます。エフゲニ・キーシンも伸ばしたままで弾いていますね。まだ留学して間もない頃アンドレイ・ガブリーロフの実家を訪れたのですが、ピアノ3台の鍵盤が削れていたんです。それくらい幼少期から鍛えていることに衝撃を受けたのを覚えています。

幼稚園児でも、自分なりのイメージをもってほしい
アシスタントにつかず、初めて自分で曲を仕上げた時のことを教えて頂けますか?

1週間でプロコフィエフのピアノ協奏曲第1番を暗譜で仕上げたのが最初でした。ですがロシア人はそれを日常的にやっていると知った時、やはり圧倒されました。ただ国際コンクールで優勝するような優秀な学生でもこれには参っていたようですが(笑)。だから彼らはレパートリーが豊富なのです。ロシアでは生徒が自分でできるまで先生は対等に扱ってくれないので、自分で印象や音色を作り、仕上げて持っていくようにしました。それでかなり鍛えられましたね。

素早く深く、学ぶのですね。

音楽以外にも色々な芸術を見たり聴くように言われました。また他のクラスの演奏を聴いたり、学生同士でディスカッションすることもありました。たとえば、相手がどういう印象で弾いているのが分からない場合、その感想を伝えると、「自分はこう考えたけど、なんでそう聞こえなかったのか?」と意見交換が始まります。生徒同士で話すことによってインスピレーションがさらに沸きます。たとえば一枚の絵を見た時、真正面から見るだけでなく、複数の作品を比較してみたり、創作の背景を想像したり、思いを巡らす習慣がつきました。

それは貴重なご経験ですね。ロシアで学んだことを、今どのようにご指導に生かしていらっしゃいますか?

まさに自分が学んできたように生徒を指導しています。「今の伴奏の和音にはどんな意味があるの?」ということをよく尋ねます。小1でも未就学児でも同じです。虫が好きだったら、「この音はどんな虫にする?」とか。一音から、一つの流れから、どうフレーズをつくるか、テヌート一つにしてもこことここはどう違うのか、楽譜をどこまで深く読み込むかを追究していきます。

レッスンを重ねて生徒が自発的になってくるとやりやすいですね。こんな絵を描いてきました、こんな物語を創ってきました、という子もいます。本人なりに印象を持っていてもそう聞こえない場合は、タッチの話をします。アクセントをつけるタッチ、空間に音を飛ばすようなタッチ、すっと投げるようなタイミングで入るタッチなど・・・すると音が変わるのです。

まず明確なイメージがあり、それを表現する様々なテクニックがある。そのことがよく伝わってきました。これからタッチの奥深さもぜひ伝授して頂きたいと思います。


菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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