海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

ヴァン・クライバーン国際コンクール(16)審査員リュウ先生&クライバーンの友情

2013/06/09
いよいよ本日9日はコンクール最終日となる。昨日8日のファイナル第2回目のステージでも名演が飛び出した。本日は日本の阪田知樹さんを含む3名のファイナリストがそれぞれ協奏曲を披露し、その後はいよいよ結果発表が待っている。
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さてここで、第14回ヴァン・クライバーン国際コンクール審査員のインタビューをお届けしたい。まずは中国のリュウ・シクン先生(Liu Shih Kun)。リュウ先生は1958年第1回チャイコフスキー国際コンクールでヴァン・クライバーンに次ぐ第2位に入賞、現在は中国国内30都市で約100校の音楽学校と幼稚園を経営しているそうだ。冷戦下のモスクワにおいて、東西それぞれの陣営に属する二人の若いアーティストが出会い、友情を育み、その後お互いに演奏活動の傍ら母国の音楽教育に熱心に取り組んだ、そのお二人の出会いと軌跡はまさに宿命ともいえるだろう。クライバーン氏との初めての出会い、友情、半世紀たってからの再会について語って頂いた。(中英通訳:Lily Hsuさん)

●初めての出会いは1958年チャイコフスキー国際コンクール

(1958年第1回チャイコフスキー国際)コンクール開幕直後は、我々はまだそれほど注目される存在ではありませんでした。当時の国家間の争いは音楽だけでなく、政争もありましたから、どちらかというと指導者の方に注目が集まっていました。新聞には「音楽のオリンピック!」という文字が躍っていましたね。出場者たちは他の国際コンクールで優勝や上位入賞という実績を引っ提げてきたピアニストばかりでした。私はリスト国際コンクールで3位入賞していましたが、ヴァンはそれまで入賞歴はありませんでした。けれどもコンクールが進むにつれて、ヴァンと私は聴衆や審査員や音楽愛好者の間で話題に上るようになりました。

我々はそれまで一度も会ったことはありませんでした。モスクワ音楽院内に練習室があったのですが、ある日私と彼は同じフロアで練習していて、廊下で偶然すれ違ったのです。二人とも身長が高いですし、それぞれ周りの人から「彼は上手い」と聞いていたので、すぐに相手が誰か分かりました。私の練習室のすぐそばだったので、彼は「ちょっと中に入ってもいいか」という素振りをし、私は彼を招き入れました。とてもフレンドリーな感じでした。そして彼は「何か1曲弾いてくれないだろうか」と聞くので、私はショパンのポロネーズOp.53を、彼はリストのハンガリー狂詩曲No.12を演奏してくれました。そしてお互いに肩を抱き寄せ合いました。これが我々の最初の出会いです。

私はファイナルの最終演奏者だったので、ヴァンは客席で私の演奏を聴いてくれました。私が彼の演奏を初めて聞いたのは、モスクワで開かれた彼の優勝記念演奏会です。その時、「彼はまさに優勝者にふさわしい」と確信しました。なぜなら、ロシアに新しい風を吹き込んでくれたからです。私は小さい頃からロシアの教育法で学んでおり、チャイコフスキーコンクールの数か月前からモスクワ音楽院に通い始めましたが、ヴァンの演奏はそこにはない全く新しいものでした。それは次の4つの言葉で表せます。「伸縮」「吊放」「鬆緊」「虚實」。(英語では説明しづらい概念ということで、4つの熟語を書いて頂きました)。

霊感に導かれた演奏といいましょうか。モスクワの人々は彼のラフマニノフ協奏曲第3番に熱狂し、その旋律の歌わせ方に惹きつけられたのです。とてもスピリチュアルで、チャーミングで、そして生き生きしたものでした。そして他の曲目、例えばバッハやモーツァルトやベートーヴェンでは本来このようなスタイルは使えませんが(リストは良いですが)、彼はそのような演奏を貫き、それが今までにない斬新な印象を与えました。

その後私がモスクワで演奏会を開いた時は、ヴァンも聴きに来てくれ、終演後に激励の言葉をかけてくれました。彼はいつでも謙虚で、私のテクニックが自分のより優れていると褒めてくれたものです。一方、私は彼の演奏法はすぐには真似できないものだと感じていました。
その後文化大革命が起きて私は6年間の投獄生活を余儀なくされたのですが、その時に彼のピアノについて色々考え、初めて理解できたのです。これは指導者から学べるものではない、特別な才能だと分かりました。

それ以降、我々は一度も会うことはできませんでした。全く違う社会システムの中で生きていましたから。もちろん私も海外演奏旅行をしましたが、全て国家の要請に基づくもので、自由行動は許されませんでした。彼はとても優しい人で、いつでも「私が元気にしているか?」と気にかけてくれていることを、友人知人を通じて聞いていました。私も彼に手紙を何度も書きましたが、すぐに返事をくれる性格ではなかったようです。

●半世紀ぶりの再会

昨年の3月にヴァンのチャイコフスキー国際コンクール優勝50周年記念パーティが開かれ、そこで再び我々は繋がることができました。半世紀ぶりの再会でした。(通訳リリーさんが師事しているウラディミール・ヴィアルドを通じて繋がったそうです)私は中国での仕事があったのですが、1日だけ休暇をもらってフォートワースに飛び、夜の記念夕食会に出席し、翌朝中国に帰国しました。ヴァンはスピーチで、開口一番に「(私が)会いに来てくれたことがとても嬉しい」と言ってくれました。その夜私はヴァンの友人宅に招待され、そこで私は「ハッピーバースデー」の即興と、「Night of Moscow」をアレンジして演奏しました。この2曲目はヴァンがモスクワでの演奏会でアンコールに弾いた曲です。旧ソ連ではポピュラーソングの演奏は禁止されていたのですが、この曲は認可後初めて演奏された曲なのです。当時、聴衆がこの曲に熱狂したのを思い出します。

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50周年のお祝いに、私は翡翠の彫刻を彼に贈りました。中国では翡翠は健康に良いとされています。でもまだその時は、彼が重大な病に侵されていることは知りませんでした。その数か月後、彼が末期がんであるとの知らせを受けました。それを聞き、私はすぐさま彼に会いにフォートワースに飛んで来ました。2日間の再会でした。
(*写真:前列左よりヴァン・クライバーン氏、右はリュウ・シクン先生、後列左はピアニスト・中国式琵琶奏者サマンサ・サン女史、右は1973年度優勝ウラディミール・ヴィアルド氏)

その時彼と、音楽界の末来について意見を交わしました。「テクノロジーは向上しているが、音楽は低迷傾向にある」と彼は危惧していました。私たちが出場したころは、国際コンクールは10くらいしかなかったですが、今は数百から1000くらいあるでしょうか。毎日のようにコンクール優勝者が生まれている現状においては、質の低下は免れません。とはいえヴァン・クライバーンコンクールはまだそのクオリティを保っている一つだと思います。ヴァンは米政府はもっと芸術や文化に力を入れるべきだと考えていました。「あなたが回復したら、また大事な仕事が待っているね」と私は答えましたが。。

●若いピアニストたちへ

ラフマニノフ、ホロヴィッツ、ホフマン、ミケランジェリ、コルトー、リヒテル、ギレリス、ポリーニ、アルゲリッチ、そしてクライバーン・・彼ら20世紀に活躍した巨匠と今では、演奏法も大きく変わっています。今の若いピアニストの演奏は、感情はあるけれど、テンペラメントが少ないと感じています。平板で、ぐっと心をつかまれない。中庸で誰もがよく似ている。自分は100階建てのビルを建てたけれども、他の人は50階建てだから、自分もまあ50階建てでいいや、と言っているようなものです。お互いを真似るのではなく、自分のアイディアを出すこと、自分のゴールを見出すこと、そして精神の探究を続けることです。それは前世紀の巨匠たちが行っていたことだと思います。

―「ヴァンは素晴らしいピアニストであると同時に、とても親切で謙虚でフレンドリーで良い教育を受けた人でした。彼はステージ上では巨人のようですが、普段はとてもナイーブで子供のようでしたね」というリュウ先生。初めての出会いから50年、今年初めてヴァン・クライバーン国際コンクールの審査を務める。どんな運命を感じながら、審査をされているのだろうか。

第14回ヴァン・クライバーン国際コンクールは、本日いよいよ最終日を迎える。

*写真を追加しました(提供:Lily Hsuさん)。


菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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