会員・会友レポート

世界遺産とピアノ [後編]世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて 第2回

2017/06/07
連載 ピアノプラザ群馬訪問 前編: 中森隆利氏に訊く――地域文化と楽器店
第2回:ポール・ブリュナとルフェビュル=ヴェリー家の人々(2)
エミリーの姉弟

ふたりの間には、少なくとも3人の子どもがいたことが、当時の公的資料確認できます。

長女:
マリー・アンヌ・シャルロット(1844/3/15~1876/06/05, ヴィドコックVidecoq夫人)
次女?:
ジョゼフィーヌ・エミリー(1845/06/14~?)
長男:
ルイ・アシル(1850頃~1875/12/20)

のちにエミリーがポール・ブリュナと結婚した際に作成された結婚証明書には、エミリーが長女だったと記されていますが、実際には44年生まれの姉の存在が確認できたので、彼女は(おそらく)次女です。ともあれ、彼女は音楽家である両親の愛情を受けて育てられ、16歳の頃にはじゅうぶんにピアノを演奏できるようになっていました。 
そのことは、父ルフェビュル・ヴェリーがエミリーに《昇天する霊魂――宗教的なメロディ》作品142(1861)という祈りのピアノ曲を献呈していることからわかります。なぜ父がこの意味深長なタイトルの作品を娘に捧げたのかは分かりませんが、そこには何かしら、近しい人物の死を悼む何らかの背景があったものと思われます。初版表紙には昇天していく若い女性が描かれています。

結婚

エミリーとブリュナが結婚したのは1871年9月18日のことです。この時、すでに父ルフェビュル=ヴェリーは病で52歳の若さで世を去り、エミリーは母とモンマルトルの丘の麓を通るクリシー大通りに住んでいました。当時、パリはコミューンの混乱の直後で、街はまだ市街戦の傷跡が生々しく残っていたはずです。そんな中、結婚式には父の旧知でパリ音楽院院長に就任したばかりの名高い作曲家アンブロワーズ・トマが証人の一人として駆けつけました。
富岡市教育委員会が編纂した『富岡製糸場のお雇い外国人に関する調査報告――特に首長ポール・ブリュナの事績に焦点を当てて』と題する中間報告書には、1871年にブリュナが「製糸機械・蒸気エンジン等の発注や指導者となるべき製糸技術者を求めてフランスへ一時帰国した」という記述があります。この帰国は、もちろん、製糸場業務の一環ということもあったのでしょうが、パリでエミリーと挙式したいという、重要な個人的事情にも動機付けられていたはずです。
 この状況に鑑みて、エミリーはおそらく、挙式後、ブリュナとともに日本に移住したと推察されます。日本滞在中、ブリュナ夫妻の間には、少なくともふたりの娘が生まれました。日本での雇用契約が満期を迎え夫妻が横浜港フランスに向けて出発したのは1876年2月15日のことです。

写真ブリュナ一行の写真。後列向かって右から二人目がブリュナ(富岡製糸場展示パネルより)
在仏家族の悲運と帰仏

ブリュナの契約は1875年末で満期を迎えた。ちょうどそのころ、1875年から76年にかけて、エミリーは耐え難い悲しみを味わいます。1875年12月20日、弟のルイ・アシルが25歳の若さで死亡、弟と同居していた50歳の母も約1か月後、1月29日に他界。ブリュナ夫妻に帰国を決断させたのは、立て続けに家族を襲った不幸だったに違いありません。そして――なんという悲運でしょう!――夫妻がフランス到着して間もなく、エミリーの姉マリー・アンヌ・シャルロットが6月5日に亡くなりました。母は孫の顔を見ることなく世を去り、姉弟を次々に失ったエミリーが、娘を見せることのできた家族は、亡くなる直前の姉だけだったことでしょう……。

さて、次回はいよいよ、帰国に際して行われた競売とそこで売られたピアノについて見てみることにしょう。


ピティナ編集部
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