会員・会友レポート

世界遺産とピアノ [後編]世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて 第1回

2017/06/01
連載 ピアノプラザ群馬訪問 後編:世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて
第1回:ポール・ブリュナとルフェビュル=ヴェリー家の人々(1)

「ピアノプラザ群馬」訪問には、もう一つの目的がありました。それが後半のテーマ、「富岡製糸場・幻のピアノ」です。中森さんは、多忙な業務の合間を縫って、このロマン溢れる難問に取り組まれています。いったい、富岡製糸場とピアノにどのような関係があるというのでしょうか。後編では、中森さんからご提供いただいた情報・資料と筆者の数週間にわたる調査によって得られた知見に基づいて、フランスから富岡製糸場に持ち込まれたピアノの数奇な運命を描き出してみたいと思います(参考文献は、連載の最後に一覧を掲載します)。

気鋭のフランス人技師ポール・ブリュナ

富岡製糸場に運び込まれた二台のピアノは、同工場で指揮を執ったフランス人技師ポール・ブリュナ夫妻が所有していた楽器です。まず、ブリュナとは、どのような人物だったのでしょうか。フランソワ・ポール・ブリュナFrançois-Paul Brunat(1840-1908)は1866年3月に在日貿易商社エシュト・リリアンタール商会の生糸検査人として来日しました。折しも時代は江戸の末期で慶応から明治へと移り、日本近代化の夜明けが始まろうとしていた時代です。殖産興業を国策の柱の一つとした明治政府は、高品質な生糸の大量生産体制を確立すること急務としていました。ヨーロッパの機械を導入し、お雇い外国人の指導下で国産生糸を世界に輸出することがこの一大産業改革の鍵だったのです。そこで大蔵省租税正という役職にあった渋沢栄一の目に留まったのがブリュナでした。1870年6月、30歳の誕生日を迎えようとしているブリュナは政府と雇用仮契約を結び、工場の建設地、経営の規模・方針等についての報告書を提出、1872年11月に工場が稼働し始めました。

キーパーソンはブリュナ夫人――妻エミリーの出自
父L・J・アルフレッド・ルフェビュール=ヴェリー

父は作曲家L・J・アルフレッド・ルフェビュール=ヴェリー(1817.11.13-1869.12.31, 本年生誕200年)で、ピアニスト、オルガン、ハルモニウム(室内オルガンの一種)を弾きこなす卓越した名手でした。パリのサン=ロック教会オルガニストだった父(アレクサンドリーヌ・エミリーの祖父)のもとでオルガンを学び、やがてパリ音楽院のピアノ科に入り、当時の名教授ヅィメルマン、およびフランソワ・ブノワのクラスでそれぞれ1835年にピアノとオルガンの一等賞を獲得ました。同時に、彼は厳格な作曲の勉強にも身を捧げました。1847年からはマドレーヌ寺院、1863年からはサン=シュルピス教会でオルガニストを務めるなど、パリの主要な教会で活躍しました。1849年、マドレーヌ寺院でショパンの葬儀が行われたとき、彼はオルガンでショパンの前奏曲を演奏しました。彼と音楽院で同門だったパリ音楽院ピアノ教授マルモンテルは、のちにルフェビュル=ヴェリーを「オルガンの至高の天才」だった述懐しています(詳しくはPTNAサイト内のマルモンテルの著書の訳文をご覧ください⇒『19世紀ピアニスト列伝』)。また、彼はグノーとも親しく、有名な《アヴェ・マリア》の私的初演に参加したことで知られています(詳しくはPTNAサイト内『ピアノ・ブロッサム』冒頭の「もっと詳しく!」欄をご覧ください)。

母ジョゼフィーヌ・テレーズ・ルフェビュル=ヴェリー(旧姓クール)

母ジョゼフィーヌ・テレーズ(1825.11.19-1876.01.28)
エミリーの母ジョゼフィーヌ・テレーズは、当代きってのソプラノ歌手シンティ=ダモローの愛弟子でした。9歳ほど年上のルフェビュル=ヴェリーと結婚したのは1843年4月15日、彼女が17歳の時でした。歌手として優れ、結婚後、ふたりはフランス各地でたびたび共演しています。たとえば、1859年7月、北仏の街ベルグの大聖堂に、名高いオルガン制作者カヴァイエ=コル工房のオルガンが設置された折、ジョゼフィーヌ・テレーズは夫の伴奏でアヴェ・マリアやサリュタリス(いずれも宗教声楽曲のジャンルだが作者不詳)を歌っています。彼女の歌唱力は作曲家たちからも高く評価されており、シャルル・グノー、ポール・アンリオン、ジャン・バティスト・ヴェッケルラン、ルイ・クラピソンといった、当時のパリの著名作曲家たちが彼女に歌曲を捧げています。彼女は声楽教師としても活動していたことが、彼女の死亡証明書から窺い知ることができます。


ピティナ編集部
【GoogleAdsense】
ホーム > 会員・会友レポート > > 世界遺産とピアノ [...