会員・会友レポート

中国流・才能と技術を磨く指導とは/森岡 葉先生

2005/05/09

第1回「ロン・ティボー、リスト、エトリンゲン、国際コンクール覇者3名の先生を尋ねて」


盛一奇(シェン・イーチー)先生

 近年めざましい経済発展とともに若手ピアニストの活躍が注目されている中国。大きな国際コンクールで次々に上位入賞を果たす彼らの優れた技巧と豊かな音楽性は、どのような教育によって生み出されるのだろうか。昨年8月のエトリンゲン青少年国際ピアノコンクールAカテゴリー(15歳以下)優勝の●端端(ハオ・ドゥアンドゥアン)、12月のロン・ティボー国際音楽コンクールピアノ部門優勝の宋思衡(ソン・スーハン)、今年4月のリスト国際ピアノコンクール優勝の孫穎迪(スン・インディ)を指導した上海音楽学院の盛一奇(シェン・イーチー)教授に、わずか1年足らずの間に3人の国際コンクール
優勝者を出した教育の秘密をうかがった。(●は「ハオ」=左が赤、右がおおざと)


盛一奇先生と3人の生徒


上海音楽院

 盛一奇(シェン・イーチー)先生は、1963年に上海音楽学院大学院を卒業後40年以上にわたって母校で教鞭を執り、多くの優秀な人材を育てている。附属中学校の副校長を務めたこともあり、成長期の生徒の個性を伸ばす的確な指導には定評がある。

◇ 生徒さんたちの国際コンクールでの快進撃が続いていますね。

―半年ちょっとの間にこんなことが起きるなんて私も驚いているんですよ。でもこれは、私の手柄ではありません。彼ら自身に才能があり、努力したということです。教師はただ導き、アドバイスするだけの存在です。コンクールは、どんなに練習して良い演奏をしても通るとは限りません。運というものも大きいのです。今回はたまたますべてが揃って良い結果が出ました。「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」ですね。

◇ 今年4月にオランダのユトレヒトで開催されたリスト国際ピアノコンクールで優勝した孫穎迪(スン・インディ)はどんな生徒さんなのでしょうか?


スン・インディ
2005年度リスト国際コンクール
優勝(ユトレヒト)

―スン・インディは、附属小学校に入る前の6歳のときから教えています。音楽に対する感性が鋭敏で、強い個性を持った子です。ジャズも弾くんですよ、WINDYという愛称で。上海ではちょっと有名です(笑)。ジャズは学校では教えませんから、独学で弾いているんです。そういう正業に就かない学生を好まない先生もいますが、私は彼の音楽がそれによって豊かになるのなら悪くないと思い、制限したことはありません。

 繊細な音楽性とリズム感は天性のものでしょう。彼の才能は小さい頃から認められていました。いつか名前が出ると言われながら、コンクールではいつも失敗して今まで1度も名前が出たことはありません。彼ほど多くの挫折を経験した子はいないでしょう。2000年のショパンコンクールに出る準備をしていたのですが、学校からの派遣の選抜枠の最後の2人に残りながら、最終的にもう1人の子が選ばれました。自費で参加するという方法もあり、何人かの先生がお金を出してあげるから参加しなさいと勧めましたが、プライドの高い子で、学校が推薦してくれないのなら絶対に行かないと言って参加しませんでした。一昨年の上海国際ピアノコンクールでも1次予選で落とされました。聴衆の反応も良く、絶対に本選に残るだろうと皆が思っていたのに落ちました。ちょうどお母さんが病気で入院しているときで、彼はとても落ち込んでかわいそうでした。今回のリスト国際の優勝は、10数年かかってやっとつかんだ栄光です。上海音楽学院の多くの教師や学生たちは、彼の苦悩と挫折を知っています。皆「スン・インディがやっと出た。もっと早く出るはずだったのに」と言っています。

◇ それでは昨年12月のロン・ティボー国際音楽コンクールで優勝した宋思衡(ソン・スーハン)はどんな生徒さんですか?


ソン・スーハン
2004年度ロン・ティボー
国際コンクール優勝

 ソン・スーハンは、小さい頃から交響曲やオペラを聴くのが大好きで、頭の中にいつもオーケストラの音が鳴り響いているような子です。中学生の頃、毎日オペラを聴いていた時期がありました。言葉がわからなくても解説書を読みながら20回くらい同じ作品を聴いて、ある日「わかった」と言って、今度はオーケストラのスコアを見ながらピアノを弾き始める。オーケストラのような豊かな音を求めて、ピアノの蓋を全開にして弾くものだから学校中に聴こえて、校長先生が怒っても、また我慢できなくてやる。自分の家のアップライトピアノは弾きつぶしてしまったので、朝早くから夜9時半に学校の門が閉まるまで練習室で弾いていて、附属中学の名物でした(笑)。

 中学2年くらいのときにマーラーの交響曲を聴いてすっかり気に入って、どうしてもCD全集を買いたいと言い出しました。発売されたばかりのマーラーの交響曲全集は1000元以上で、中学生のお小遣いでは買えない金額でした。毎日のように「いつか絶対買いたい」と言うので、それなら買いなさいとお金を出してあげたら、毎月50元のお小遣いの中から少しずつ返してくれました。彼の才能がどこにあるかというと、まさにそこにあります。頭の中はいつも音楽でいっぱい。他のことは考えられない。ロン・ティボーの本選でコンチェルトを弾いているときに指揮者のようなアクションをして話題になりましたが、彼はオーケストラが大好きで、自然に体が動いてしまうのです。

 スン・インディもソン・スーハンも、常人とは違う超越したところがありますが、私はそういう「変わり者」の学生が大好きです。そういう子は絶対伸びますね。

◇ 昨年8月のエトリンゲン青少年国際ピアノコンクールで優勝した端端(ハオ・ドゥアンドゥアン)はどんな子ですか?まだ中学生ですね?


ハオ・ドゥアンドゥアン
2004年度エトリンゲン青少年国際
ピアノコンクール優勝

 ハオ・ドゥアンドゥアンは山西省太原の出身で、家族に音楽のわかる人は誰もいないという環境で育ちました。もちろん彼はピアノが大好きでしたが、小学5年生のときに上海に来たときは、音楽に関する知識が乏しく、古典派、ロマン派という言葉も知りませんでした。体には恵まれていて、10歳で10度が届く大きな手を持っていましたが、技術的には劣っていました。上海で生まれ育ったスン・インディやソン・スーハンとは全く違います。私は彼に音楽史の本を読ませたり、様々な作品のCDを聴かせて鑑賞能力を養いました。彼は素直な性格で、私が与えたものをどんどん吸収して才能を開花させました。彼は今15歳で、この秋からフランスに留学します。12度が楽に届く大きな手と音楽を愛する心を持っているので、まだまだ伸びると思います。

◇ それぞれの生徒の個性をよく理解して大切に育てていらっしゃるのですね。体も精神も大きく変化する10代の生徒を指導するのは難しいことだと思いますが。

―確かに難しいですね。私はそれぞれの子どもの年齢や個性を見ながら、今その子に何が必要なのかといつも考えています。

 ハオ・ドゥアンドゥアンの場合は、とにかく音楽の知識が足りなかったので、その面を補うようにしました。ピアノを弾くだけでなく、音楽そのものへの興味を引き出すことによって彼の音楽が豊かになればと思いました。心の中の音楽への情熱を育てることができれば、年齢が大きくなって様々な困難に出会っても、必ず乗り越えられると考えたからです。


盛一奇先生を囲んで
(2005年5月パリにて)

  スン・インディの場合は全く違う問題に出会いました。幾つかのコンクールに失敗した後、自信を失って、もうピアノはやめる、他の勉強をすると言い出しました。聡明な子ですから、別の方向に進んでも成功したかもしれません。でも私は彼にピアノをやめてほしくはありませんでした。ピアノを続けなければ絶対後悔するだろうと一生懸命説得しました。結局彼はピアノを棄てませんでした。本人に音楽を熱愛する心があれば、どんな困難でも克服できると私は確信しました。

  ソン・スーハンは中学に入ったばかりの頃、多くの先生たちから「あの子は教師の言うことをきかない」と言われていました。反抗期ということもありましたが、彼の頭の中にはいつも音楽が満ち溢れていて、先生の言うことが耳に入らないのです。こんなことがありました。コンクールで弾く中国人の作曲家の現代作品を練習しているとき、彼は私の解釈が気に入らず、次のレッスンで私が言ったことを極端に誇張して演奏しました。私はまず彼が故意にやった部分を注意し、それから笑って「私の解釈で弾くとこういう結果になるって言いたいの?」と聞くと、彼も笑い出しました。

  彼が私の生徒になったばかりの頃、ピアノを弾くときに体が硬くなったり、速さを追求するという欠点がありました。彼は音楽的な想像力が豊かで、ピアノを弾いているときでもオーケストラのような表現を求めるあまり、体に力が入ってしまうのです。そういう癖は早く直すべきだと考えて、1年半ほど彼のフォームや弾き方の「調整」に専念しました。そして「調整」の成果がやっと現われ始めた頃参加した「珠江杯」コンクールのジュニア部門で優勝することができました。

 このコンクールは中国全土の青少年が参加する国内のコンクールでは最も権威のあるもので、彼が参加した96年には、その後ヴァン・クライバーンで入賞したワン・シャオハン(王笑寒)やチャイコフスキー、エリザベートなどで入賞したジュー・ジン(居覲)、つい最近クリーブランドで入賞したホアン・チューファン(黄楚芳)なども参加し、レベルの高いコンクールでした。ソン・スーハンにとっては初めての大きなコンクールでしたし、まだ「調整」の段階でしたから賞を獲ることは考えませんでした。3次予選まで残って、準備した曲がすべて弾ければそれで良いと思っていました。そのせいか気負わず、自分の音楽を表現することだけに集中し、本選でグリーグのコンチェルトを弾いて優勝しました。

 これが中学2年のときで、それから4年間私は彼にコンクールに出ることを禁じて、練習室にこもるよう命じました。彼が優勝したのはジュニアのコンクールです。シニアのコンクールとはレパートリーの大きさや重さが全く違います。コンクールに参加しながらレパートリーを作るというやり方もありますが、私は彼を静かな環境に置いて、なるべく多くの作品を弾き、その中から自分に合ったレパートリーを見つけてほしいと考えました。その方が演奏家として後で伸びると考えたからです。

 大きな国際コンクールでは、エチュードだけでも4曲必要です。どのエチュードが一番合っているか、すべての作品を弾いてから決めるべきだと考え、ショパン、リスト、ラフマニノフ、ドビュッシーのエチュードはすべて勉強させました。コンチェルトも附属高校を卒業するまでに10曲マスターすることを目標にしました。ステージの経験は必要ですから、毎学期に1回学内で演奏会を開きました。あるときのプログラムは前半がシヨパン・エチュード全曲、後半がコンチェルト、あるときのプログラムはベートーヴェンのソナタ3曲というように、様々なレパートリーを発表させて本番の経験を積ませました。コンクールに煩わされずに、自分の音楽を作ることに集中して勉強したことは良かったと思います。高校3年になって大学への推薦が決まってから、コンクールへの参加を再開しました。

  最初は2000年の浜松国際コンクール。2次予選までしか行けませんでしたが、たまたま会場で聴いていたマリアン・リビツキ氏がフランスに留学するなら力を貸しましょうと言ってくださいました。当時の彼の家の経済状態では私費留学は無理だったのであきらめましたが、大学1年のときにポルト国際コンクールで2位になって賞金を得たことと、上海国際コンクールで2位になってアジア・ヨーロッパ財団の奨学金を得たことから、フランスに留学してマリアン・リビツキ氏に師事することになりました。

 コンクールの低年齢化傾向が加速する中で、ゆっくりと生徒を育てる盛一奇(シェン・イーチー)先生の教育方法には一貫した信念がある。25歳で初めて国際コンクール優勝を果たしたスン・インディ、中学2年から高校3年までコンクールに参加せずに自身の音楽を熟成させたソン・スーハン。結果を早く出すことを求めず、演奏家として大成することを目指して生徒を教育している彼女自身はどのような教育を受けたのだろうか。上海音楽学院の教育のルーツを探りながら、後半では中国人ピアニストのテクニックの秘密に迫りたい。

関連リンク

・上海音楽学院ホームページ http://www.shcmusic.edu.cn/
・上海音楽学院附属中学ホームページ


第2回「美しい音を生み出す奏法」

 「腕や肩を合理的に使った自然な奏法が、もっとも美しい音を出す秘訣である」?その理論は上海ピアノ教育の草分け的存在だった李翠貞(リ・ツェイゼン)先生から受け継がれている。惜しくも文化大革命の際に亡くなった李先生の後を継いで、盛一奇先生、そして今や世界的ピアニストとなったラン・ランの幼少時の指導者、朱(チュウ)先生等が、現在も上海で優れたピアニストを育てている。 前回に引き続き、盛一奇先生のお話はピアニストの身体能力と奏法の関係性、そしてご自身が若い頃に受けた教育に言及している。

恩師・李翠貞先生から受け継いだ、英国式教育の影響



リポート◎森岡 葉先生(慶應義塾大学法学部政治学科卒・音楽ライター)


ピティナ編集部
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