脳と身体の教科書

第03回 身体が動く仕組み (2)手が鍵盤上を移動するための筋肉

2010/02/26
身体が動く仕組み (2)手が鍵盤上を移動するための筋肉

前回は、身体(関節)を動かすために、筋肉がどう働いているかについて、お話しました。今回は、より具体的に、「どの筋が、どんな動きを生み出すか」についてお話します。

練習していて、弾きにくいところが出てきた時、色々考えることがあると思います。音楽の解釈や感じ方、表現方法などが問題になっていることもあれば、からだの使い方が弾きにくさの原因になっていることもあります。後者の「からだ」のことを考えるとき、ピアノの面白いところの一つは、「様々な指使いで、同じ音楽を創れる」ということでしょう。

もちろん、ショパンの言うように「各指にはそれぞれの個性がある」から、指使いを変えれば音も変わってしまうかもしれませんが、その議論は取りあえずここでは置いておいて、「音の粒が揃う指使い」や「筋肉に負担の少ない指使い」というのはあるはずです。ですので、指使いは、"弾きにくさ"に直面したときに、時間をかけて考える価値のある、とても面白いトピックだと思います。残念なことに、指使いの"妙"を対象とした先行研究は未だ報告されていないのですが、私は現在、最適化理論という考え方に基づいて、「指使いと弾きやすさの関係」を解明しようとするプロジェクトにも参加しているので、成果がまとまり次第、別の機会にお話させていただきます。

さて、指使いが決まったとして、手指を鍵盤上で思い通りに動かすには、どの筋肉を使えばよいのでしょうか? 今回は、手を動かす上半身の話を、次回は指に焦点を当てた話をさせていただきます。

まず、手を「持ち上げる」「降ろす」という上下運動から見ていきましょう。打鍵と離鍵に直接関係する筋肉です。図1、図2を見てください1)。右腕の肩と肘を曲げ伸ばしする主要な筋肉を描きました。片方の筋肉が縮み、もう片方が弛んでいると、その筋肉よりも身体から遠い身体の部分が上下に動きます。例えば、力こぶが縮み、二の腕が弛んでいると、それより先の部分、すなわち、前腕が持ち上がります。また、縮むと肩と肘の両方を同時に回転させる筋肉もあります。これらに加えて、肩甲骨および鎖骨の回転と、胴体の動きも加わります。胴体は、背骨の伸び縮みと、股関節の回転によって、動きます。

次に、手の左右の動きを見ていきましょう。スケール、アルペジオ、跳躍・・・様々な演奏シーンで、手の左右の動きは必要になります。この動きは、僅かですが、手首の左右の動きでも作り出せます。しかし、手首の横には大切な神経が通っているので、それを傷める可能性があると考えられている「手首の左右動」を多用することは、個人的にはあまり推奨できません(勿論、程度問題ですが)。手を左右に動かす上でメインとなるのは、肩と胸、背中の筋肉です。図3を見てください。これらは、脇を開いたり閉じたりする動きを生み出し、その結果、手は左右に動きます。わかりにくいかもしれませんが、右手を右方向に動かす筋肉は、肩の側面に付いている筋肉です。肩の横を触りながら、手を右に動かしてみると、硬くなるのが感じられると思います。

最後は、手の回転です。手は、「前後・上下・左右」に移動しなくても、その場所で、3種類の回転ができます。ここでは、トレモロに代表して利用される、手の左右回転を見てみましょう(左図参照)。これは主に、前腕の中にある二本の骨が回転すると起こる動きで、それに対応する筋肉は、上腕から前腕にかけて付着しています(図4)。なお、「前腕を外側に回転する」というのは、ドアノブを右に回す動きです。

まずはなんとなく感触を掴んでいただくために、主な動きと筋肉だけを簡単にご紹介しました。これらはあくまで基本の動きでして、どの筋肉同士を組み合わせて使うか、どのタイミングで使うかを変えることによって、ほぼ無限の動きをすることができます。このへんは、もう少しつっこんだ話もしたいのですが、マニアックになりすぎるのが自分の良くない癖なので、今回はこのへんにしておきます。

ではなぜ、このお話が、演奏や指導をする上で重要になるのでしょうか?筋肉の伸び縮みと、それによって起こる関節の動き、および手の動きの関係について正しく知ることには、重要な意義が少なくとも3つあります。

一つ目は、これらの知識は、演奏・指導において、「問題の原因を、問題のある箇所以外の場所に探す」という視点を与えてくれます。例えば、演奏中に、肘のある位置を前後に動かそうとする時に、肘の周辺にばかり注意を向ける人がいますが、実際は、肩の中の関節が回転するから、肘のある位置は前後に移動します。「手首を回す」というのも同じで、いわゆるピアノのレッスンでよく言われる「手首を回す」というのは、肘の中の回転と、肩関節の前後の回転を伴います。

二つ目は、筋肉が「同時収縮」をすると、関節は動かないというお話です。ですから、手をある方向に動かそうと思っても、そのために必要な筋肉がなんらかの理由で固まっていると、動きません。例えば、跳躍が弾きにくい時、肩の横の筋肉に意識を広げてみたり、アルペジオの下降形が弾きにくいのであれば、鎖骨の下の胸の筋肉に手を当ててみてチェックするなどしてみると、解決の糸口になるかもしれません。

三つ目は、これは私が特に重要と考えている点ですが、「違う筋肉や関節を使っても、同じ手の動きを生み出せる」ということです。例えば、「手を持ち上げたい」という要求に対して、私たちは、手首、肘、肩、肩甲骨のどれを使っても実現できます。勿論、それら全てを使うこともできますし、先述した通り、それぞれを「どの程度」「どのタイミングで」使うかも、色々な組み合わせを変えられます。手を左右に動かすのも同様で、手首を使っても肩を使っても、手の位置は左右に移動するわけです。

このように、一つのことを、様々な身体の使い方でできることは、「身体動作の冗長性」と呼ばれていて、熟達、疲労、老化・・・さまざまな要因で、この使い方が変わってくることが知られています2)。したがって、手をどこかに動かしたい時に、何か問題に直面した時には、「その動きを、他の身体の使い方でできないかな?」と考えてみるとよいでしょう。今回のお話は、それを考える材料となるヒントを提供してくれます。そして、ピアノ演奏は、身体の動きそのものが目的ではないので、ある表現を生み出す身体の使い方を探していくことが、練習の一つの醍醐味ではないでしょうか。



【脚注】
1)
手描きゆえの拙図で恐縮ゆえ、参考文献をご紹介します。
・肉単.エヌ・ティー・エス
・目で見る動きの解剖学.大修館書店
・ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.春秋社
2)
例えば、「熟達」Furuya and Kinoshita 2008 Neuroscience、「疲労」Cote et al. 2008 Motor Control、「加齢」Lee et al. 2005 Exp Brain Resなど。冗長性については、Bernstein 1967 The coordination and regulation of movements. 参照. もう少し説明しますと、手の動きだけを考えた場合、手は3方向の移動と3方向の回転で、計6つの動きができます。しかし、それを動かす各関節の回転を見ていきますと、肩は3つ、肘は2つ、手首は2つの回転、つまり、計7つの回転ができます。7つの回転で、6つの動きを作り出すわけですから、同じ動きを、色々な関節のコーディネーションで作り出せるわけです。これに、さらに筋肉の数を考えると、私たちの身体がいかに可能性を秘めているかがわかるかと思います。

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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