ショパン時代のピアノ教育

第27回 パリ音楽院ピアノ教授:ヅィメルマン その7

2009/08/17

ピアノ科教授辞職と後継者問題

 《英雄レクィエム》の初演から僅か二年後、1848年にヅィメルマンは、ピアノ科教授を辞職する決意を固めた。彼が新しい院長F. オベール (1782-1871)に提出した辞表には、次のように記されている。

 貴方が常々私に寄せてこられたご好意から察しますに、私は、自身の音楽院への奉仕が、なおも貴方にとって有益であるだろうと思います。しかしながら、私は教職についてから32年を数えます。私のキャリアは十分に満たされましたので、時宜よくこの職を終えるしかないと思います(1)

 ヅィメルマンは、実際、既に充分な仕事をしたと考えて教授職を辞したのだろうか。彼は続けて次のように述べている。

 しかしながら、私は生まれたときから知っているこの学校から離れることは考えられませんし、院長である貴方や、友人、同僚たちとの関係を断ち切るのはつらいことです。[・・・]私は退職金を受けたら(その資格をもつ知り合いたちを通じて)、音楽院のピアノ科クラスの監察官と教育委員会の資格を要求します。もし、私が資格を希望し、貴方が快く私の要求を受け入れて下さるなら、私が形成したフランスにおけるピアノの流派は以後も存続するでしょう(2)

 もし、彼が音楽院を離れたくないのであれば、監察官や音楽教育委員にならずにピアノ教授を継続すればよかったはずである。それにもかかわらず、自ら辞表を提出した背景には、彼を辞職に追い込むような外的要因があったと考えられる。
 マルモンテルは、ヅィメルマンが当時、周囲から何らかの圧力を受けていたことを示唆している。

 [...] ] 彼は、自身の教育に対するひそかな敵意を感じていたが、それは彼のもとで教育をうけた芸術家たちからのものだった。私はこの件に関する彼の打ち明け話に加え、彼が事あるごとに強い不満をもらすのを耳にした。コンクールで、審査員たちはヅィメルマンのライヴァル・クラスが有利になるよう、彼のクラスを軽視すべきと考えたのだ。ヅィメルマンはめったに人を毛嫌いするような人物ではなかったが、ライヴァル・クラスのとある助手に対しては非常な反感をもっていた。ヅィメルマンは小さな意地悪にしつこく悩まされ、働き盛りだったにもかかわらず、退職せざるを得なくなり、ピアノ科の監察官に任じられた。(3)
A-F.マルモンテル
A-F.マルモンテル(1816-1898)

 この「とある助手」を特定するには詳細な調査を要するが、少なくとも1840年代後半に、ヅィメルマンは、一部の教授と不和があり、コンクールで自身の生徒が不利な立場に置かれることがあった、ということである。ヅィメルマンの後任候補には、その生徒だったマルモンテルプリューダンアルカンの名が挙がったが、最終的にこの職についたのは、卒業後、絶えず音楽院に務め、オベールの後ろ盾を得ていたマルモンテルであった。


ピアノ科教授のポストをめぐる争い

E.プリューダン(1816-1863)
E.プリューダン(1816-1863)
 ヅィメルマンの後継者争いは、候補者たちの人生を決定づける重要なポイントだった。候補者のうち、プリューダンアルカンは、少なくとも作曲・演奏の双方において名声を確立していた。プリューダンは48年までに《12のジャンル・エチュード》作品16 (1844)や作品20番台の極めて華麗なコンサート用作品群を世に出し、国際的なヴィルトゥオーゾとして名声を確立していた。アルカンはほとんどパリを離れることがなかったものの、《騎士―コンサート・エチュード》作品17から《全長調による12の練習曲》作品35に至る前期の代表作を40年代次々に出版し、注目を集めていた。彼らはいずれもこの時までに音楽院コンクールに審査員として招かれていた。しかし、当時マルモンテルの名声は他の二人に比べれば地味なものだった。創作ではまだノクターンやワルツといったサロン用の小品、初心者用の練習曲集しか出版していなかった。 そのかわり、彼は二人とはちがって、36年以来ずっとソルフェージュ科に務めており、前委員長ケルビーニ没後、
Ch.-V.アルカン(1813-1888)
Ch.-V.アルカン(1813-1888)
おそらく新しく院長に就任したオベールと信頼関係を築いたおかげで首尾よく選挙で票を得、音楽院ピアノ科教授のポストにおさまったのである。「落選組」のプリューダンは、教職につかなかったおかげでその後も63年に没するまでツアーピアニストとしての生涯を送る。プリューダンは、自分が教授に選ばれなかったことで不満を抱いたりマルモンテルに嫉妬することはなかったようだ。一方のアルカンは、落選でひどくプライドを傷つけられ、音楽院に不信感をいだくようになる。アルカンはこの一件から数年経たのちも、尊敬する学者F.-J.フェティスに無念を書き送っている。彼はこの事件のあと、創作は続けていたが、57年までは作品を出版しなくなった。音楽院のピアノ教育を決定づけたこの政治的な事件についてはいずれ稿を改めて詳しく書こうと思う。


1 Paris, Archive nationale, AJ37 72, 4. p. 5.
2 Ibid.
3 Marmontel, Les Pianistes célèbres, p. 207.

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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