ショパン時代のピアノ教育

第26回 『ヅィメルマン』その6 フランス学士院への道

2009/07/10

ピアノ教育の分野において着実に業績を重ねパリで最も著名な教授としての地位を確立していたヅィメルマンは、音楽院での公的教育に加えプライベートな作曲・ピアノのレッスンで多忙な日々を送っていたに違いない。そのような状況下にあって1840年代半ば、このピアノ教授は宗教曲《荘厳ミサ曲》(1845年初演)、《英雄レクィエム》(1846年初演)の創作に没頭していた。ケルビーニの愛弟子として確実な作曲の技量をもっていたとはいえ、彼はなぜピアノ教授活動には飽き足らず宗教曲を書こうとしたのだろうか。その背景には連載第25回で指摘したようにオーケストラや声楽を用いた大規模作品で成功することによって「一流の作曲家」としての社会的地位を確立したいという彼の願望があったと考えられる。30年代のオペラ・コミックは「台本のせいで」失敗、グランド・オペラはあと一歩のところで上演に漕ぎつけられなかった。十全な作曲の力量を備えながらも評価される機会に恵まれなかったヅィメルマンは生前にどうしても「作曲家」としての能力を正当に評価してほしいという思いが募っていたはずである。
「作曲家」としての成功は、とりもなおさずフランス学士院への第一歩であった。フランス学士院Institut de Franceとはナポレオンが1803年に設置した一流の知識人、文学者、芸術家たちの協会で、「美術部門」に属する音楽セクションは「作曲セクションséction de composition musicale」と呼ばれ(1)、ここに入るには、高い作曲家としての地位が必要とされていた。音楽セクションに名を連ねたのはパリ音楽院作曲家教授、ケルビーニ、ベルトン、ルジュール、オベール、アレヴィなど作曲界の権威者たちばかりである。
ヅィメルマンの宗教曲作曲の主な動機は、この学士院入会にあったようだ。1816年以来、学士院音楽セクションに席を占めていたケルビーニが1842年に亡くなると、空席をめぐり4名の候補者、オンスロー、ベルリオーズヅィメルマンアドルフ・アダンが争った(2)。この年の選挙では、最終的にオンスローが学士院の会員となった。その後、これらの候補者のうち、アダンは1844年に、ベルリオーズは56年に会員に選出されたが、ヅィメルマンだけは選出されることがなかった。 ヅィメルマン以外の候補者も、その名声は第一に作曲家としてのものであった。オンスローは既に30年代、フランスにおいて交響曲作曲家としての地位を築いており、パリ音楽院演奏協会でも彼の作品がたびたび演奏されていた。ベルリオーズは1830年、学士院よりローマ賞を与えられ、同年に《幻想交響曲》を初演、イタリアから帰った後は34年に充分な成功を収められなかったものの、オペラ座で《ベンヴェヌート・チェッリーニ》の上演にこぎつけるなど、作曲家としてキャリアを着実に積んでいた。アダンは、もっぱらオペラ作曲家として著名であり、30年代にいくつものオペラ・コミックを成功させていた。
彼らに比して、ヅィメルマンの作曲家としての名声は、教育者としてのそれに比べればやや地味なものだった。オペラ・コミック《誘拐》は、満足のいく成功を収められず、またグランド・オペラ《ノシカ》は上演すらされなかった。
1842年に学士院会員の選挙に敗れた翌年、ヅィメルマンは《荘厳ミサ曲》に着手した。更に《英雄レクィエム》を続けて発表することによってケルビーニに師事した作曲家としての力量をアピールしようと考えたのではないだろうか。彼が《荘厳ミサ曲》は学士院会員アレヴィに献呈し、出版譜の一つにやはり学士院会員であった「スポンティーニへのオマージュ」と書き込んだ事実はそのことを示唆している。ヅィメルマンが学士院への入会を望んでいた事実は、音楽雑誌に掲載されたこの作品に対する批評や、後の音楽院ピアノ科教授でヅィメルマンの生徒マルモンテルの回想から知ることができる。例えば、ブランシャールという批評家は《荘厳ミサ》についての記事で次のように述べている。

彼は、この作品を聖なる鍵の形に作り上げたが、それは天国に通じるためのもの―生徒たちを教育する彼の忍耐は彼をそこにまっすぐに導くはずだ―ではなく、学士院の扉を開くためのマスターキーとして彼に役立つに違いない。もし彼がそこに導かれるに至れば、彼は間違った鍵を用いたなどと言われることはありえないだろう。(3)

ブランシャールは、ヅィメルマンの《荘厳ミサ曲》が学士院入会の契機になることを望んでいるようである。更に、《英雄レクィエム》の批評においても、彼はヅィメルマンの希望を代弁して次のように述べている。

彼はこうした[金銭的成功を求めない、無欲な]音楽的文化活動に身を委ねながら、ある考えを持っているそうだ。それは、彼がアカデミー・フランセーズの会員の間に席を占めるという名誉に値する人物だ、ということである。

こうした周囲の期待にもかかわらず、ヅィメルマンの2つの宗教作品は、学士院入会への鍵とはならなかった。マルモンテルは、ヅィメルマンが学士院に入会できなかったことにひどく心を痛めていたと回想している。

彼は学士院会員への入会をつよく望んでいた。しかし、教授としての多大な名声、高度な学の動かしがたい証拠をもってしても、ある種の敵意に打ち勝つことはできなかった。ヅィメルマンは自身の不成功に、そしてとりわけ旧友のオンスローとオベールに置き去りにされたことに大変悲しげな態度を見せた(4)

マルモンテルがここで指摘している「ある種の敵意」が何を指すのかは不明瞭であるが、音楽院の中では低い地位にある一器楽教授が、フランス芸術界の最高権威である学士院に足を踏み入れることを、関係者はあまり好ましく思わなかったのではないだろうか。この時期のヅィメルマンの奮闘は、いわば音楽界のヒエラルキーに対する戦いでもあった。
ヅィメルマンは、学士院の会員候補となった1842年、院長ケルビーニの後任候補としてもその名が挙がっていたが、票はオベールと、パリ音楽院演奏協会を長らく率いていた指揮者、ヴァイオリン科教授のアブネックに集まり(5)、最終的に前者が院長を務めることになった。恩師であったケルビーニの後継となることは、ヅィメルマンの望みでもあったであろうが、学士院への道も、院長への道も経たれ、彼は再びピアノ教育の領域へと引き下がっていった。
ヅィメルマンはその才能ゆえに作曲家として正当に評価されないことを残念に思っていいたが、必ずしも名声欲のみが創作の動機になっていたわけではない。二つの宗教曲作曲のモチベーションは彼が所属し中心的な役割を担っていた音楽芸術家協会Association des artistes musiciens(6)に求めることもできる。この協会は1843年にテイラー男爵Baron Taylerが創設した音楽家の相互扶助団体で、社会的地位が不安定な音楽家および音楽愛好家を支援することを目的としていた。委員には、ヅィメルマンをはじめ、ベルリオーズ、マイヤベーア、リストなど著名な音楽家たちが名を連ねた。この協会は、単に経済的な援助を行うだけでなく、様々な音楽活動の原動力となった。演奏会を催すことによって、会費だけではまかなえない財源を確保したのである。教会でミサ曲が演奏される際に行われる募金もまた、重要な財源となった。例えばヅィメルマンの《英雄レクィエム》が上演されたのと同じ1846年、サン=ウスタシュ教会ではベルリオーズのミサ曲も上演されたが、これも同協会の活動の一環であった。この他に、アドルフ・アダン、トマ、グノーらは、毎年、音楽芸術家協会のために、サン=ウスタシュ教会でミサ曲を上演しているが、この事実はサン=ウスタシュ教会が、音楽芸術家協会と強い結びつきを持っていたことを示している。
ヅィメルマンはこの協会の創設当初から中心的な役割を担っており、没後には1200冊の彼の蔵書が同協会に遺贈された(7)。創設者のテイラーは、ヅィメルマンの弔辞で次のように述べている。

彼は慈善と芸術家の尊厳に対する強烈な情熱をもっていたので、音楽芸術協会を設立しようという我々の最初の呼びかけに真っ先に応じ、やがて彼はこの協会の会長の一人となった。我々が助けている気高い逆境の芸術家たちを慰めるために、彼はいったい何度我々に匿名で、委員会が承認する金額を増やすよう懇願したことだろうか!さらに彼はそれ以上のこともした。しばしば我々の協会のなかで、音楽家協会に所属していないある芸術家に不幸が襲いかかったと聞くと、彼は人知れず、急いで彼に助けの手を差し伸べていた。(8)

この回想からは、ヅィメルマンが慈善活動に対する強い意欲を抱いていたことが分かる。さらに、モネは、ヅィメルマンが教授を辞めた後に、自ら奨学金を設けたと述べている。

1848年の事件 [ピアノ科教授の辞職] の後、彼はもう少しお金があったので、一度ならず、自身の奨学金を開設し、傑出した芸術家で、その才能をもってしても職の見つからない音楽家や画家に助けの手を差し伸べた(9)

こうした芸術と芸術家に対する慈愛もまた《荘厳ミサ曲》と《英雄レクィエム》の創作意欲に繋がっていたのではないだろうか。実際、サン=ウスタシュ教会における《荘厳ミサ曲》上演記事(10)には、ヅィメルマンが送付した招待状を持参した知人や生徒から、合計1200フランが得られたこと、演奏中に募金があったことなど、料金の回収に関する記述が見られる。この記事の著者であるブランシャールは、こうした行為を教会の営利主義として批判しているが、おそらく、このときの上演で行われた集金活動はヅィメルマンのミサ曲を通して収益を上げようとする音楽芸術家協会の活動の一環だったと考えられる。彼がこの作品に着手した年、1843年が、協会設立の年と一致しているということも、この作品が音楽芸術協会のために書かれたということを示唆している。この後に書かれた《英雄レクィエム》も同じ教会で初演されたので、やはり音楽芸術家協会のために書かれた可能性が高い。40年代の上演が音楽芸術協会によって行われたことを示す決定的な証拠はないにしても、1850年、音楽芸術協会の委員会は、翌年の聖チェチーリアの式典solennité de la Saint-Cécileで「ヅィメルマン作曲のミサ曲」を上演することを決定した(11)。この曲が《荘厳ミサ》なのか、《英雄レクィエム》なのかは定かではないが、協会の中心的人物であったヅィメルマンは、おそらく、遅かれ早かれ同協会によって上演が決定されることを期待して、これらの作品に取り組んだのではないだろうか。
1854年10月29日、音楽雑誌『ル・メネストレル』は彼の一周忌にマドレーヌ寺院で《英雄レクィエム》の上演が行われると報じた。演奏には230人もの音楽家が参加したという。「作曲家」としての社会的地位は十分に確立することができなかったもののヅィメルマンの芸術への献身は、彼の亡き後も多くの芸術家の心に残り続けた。


1 J.-M. Fauquet "académie" in Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle (Paris: Fayard, 2003), p. 2.
2 "Nouvelles" in Revue et gazette musicale de Paris, 3 April 1842, no. 14, p. 143.
3 Henri Branchard, "Coup-d'œil Musical―Les concerts de la saison in RGM, 30 November 1845, no.48, p. 391.
4 Marmontel, Les Pianistes Célèbres, p. 206.
5 D.Kern Holoman, The Société des Concerts du Conservatoire 1828-1967, Berkeley (University of California Press), 2004, p. 178.
6 この協会に関しては、以下の辞書項目を参照。J.-M. Fauquet "Association des artistes musiciens" in Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle (Paris: Fayard, 2003), pp. 65-66.
7 "Nouvelles divers" in Le Ménestrel, 13 November, 1853, p.3. ヅィメルマンの小伝を書いたラバは、「1200フラン」を遺贈したと書いているが、根拠となる資料は提示されていない。Cf.. J.-B. Labat, "Zimmerman et l'école française de piano", in Courrier de Tarne-et-Garrone, 4 and 7 February, 1865, p. 12.
8 この弔辞は以下の記事に引用されている。Ed. Monnais, op.cit. pp. 392-393.
9 Edouard Monnais, "Nécrologie : Zimmerman" in RGM, no.45 1853. 6 November, p.392.
10 Henri Branchard, "Coup-d'œil Musical―Les concerts de la saison" in RGM, 30 November 1845, no.48, pp. 390-391.
11 "Nouvelles diverseses" in LM, 8 December 1850, p. 3.

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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