ショパン時代のピアノ教育

第13回 カルクブレンナーのピアノ・メソッド 5―生徒に勧めた作曲家と作品、そのジャンル

2008/04/25

前回は、カルクブレンナーが目指した、ピアノによる理想的な音楽表現について検討した。彼は、ピアノ音楽に、オーケストラが作り出すような多様な音色を与えることを目指したのであった。そして、それを達成するために彼がマスターすべきであると考えたのは、ピアノ音楽のテクスチュアを多彩なニュアンスで彩ることであった。いわば、あらゆる形態のテクスチュアに指が対応できるようにする技術を彼は目指したのであった。だからこそ、彼は10本の指の均等性、両手の対等性を主張したのであった。

さて、今回の話題は、カルクブレンナーが生徒に練習を薦めていた作曲家についてである。彼は、いくつかの作品でピアノの技法はもとより、和声においても冒険的な試みをしている(たとえば、《音楽の奔出》作品68は3楽章からなる大規模な幻想曲である。第1楽章では半音階を多用しつつ、遠隔転調を繰り返している)。その点、彼は19世紀最初の数十年においてピアノ界の先駆的音楽家であったが、フレージングやアタックなど、ピアノの演奏技法の基礎はあくまで「古典音楽」にあると考えていた。彼は次のように述べている。

もし、ピアノのために書かれた古典音楽を演奏せず、今流行の音楽しか演奏しなければ、傑出した才能を得ることはまったく不可能である。すばらしいメカニスム、荘厳かつ滑らかな演奏、フレージングや音のアタックの美しい手法を見出されるのは、エール・ヴァリエやピアノのためのオペラ編曲ではない。これらすべての美点をもたらすよう計算された大家の作品を学ばねばならないのである。

彼が「古典音楽」というとき、それは今日とは違い、J.S.バッハ(1685-1750)からベートーヴェン(1770-1827)あたりまでの作曲家の作品を指している。また、彼が流行の音楽としてあげているエール・ヴァリエや、オペラ編曲は、有名なオペラ旋律や馴染み深い旋律をきらびやかに飾りつけ、大衆の趣味に沿うように作られた音楽を指す。

では、カルクブレンナーは、具体的にどのような「大家」を生徒に薦めたのだろうか。彼が第1に挙げる名前はクレメンティMuzio Clementi(1752-1832)である。クレメンティの経歴については、多くの辞典で参照できるので、ここでは省略する。クレメンティは、優れたピアニスト・作曲家であると同時に、ピアノの技法を体系化し、次世代を教育した優れた教育者でもあった。弟子にはクラーマーJohann Baptist Cramer(1771-1858)、フィールドJohn Field(1782-1837)、クレンゲルAugust Alexander Klengel(1783-1852)など、優れたピアニスト・作曲家が含まれる。カルクブレンナー自身、ヴィーンで彼の演奏を聴き、多大な感化を受けた(第7回参照)。クレメンティの教育的な作品の中でもっとも重要なのは、《パルナッソス山への階梯Gradus ad Parnassum》である。1817年から26年にかけて、3巻に亘り出版されたこの曲集は100まで番号のついた練習曲からなり、それぞれの練習曲はひとつ以上の技巧をテーマとしている。これら多くは、カルクブレンナーが《メソッド》で提示した練習課題と重複する部分が多く、いかに彼がクレメンティに負っているかがわかる。

譜例1 クレメンティ 《パルナッソス山への階梯》第1番
譜例1

譜例2 カルクブレンナー 《メソッド》練習第1番 指の独立のための練習
譜例2

また、フーガやカノンといった対位法に基づくポリフォニーをピアノの練習に取り入れる点も、クレメンティに負っているといえるだろう。

クラーマー
クラーマーJ.-B. Cramer
(1771-1858)

クレメンティに次いで、カルクブレンナーが推薦する作曲家は、クレメンティの弟子クラーマーと、ドゥセクJan- Ladislav Dussek(1760-1812)である。

クラーマーに関しては、その練習曲 作品30、40(Siber/Pleyel père et fis, 1803/1804)が当時教育上もっとも重要な作品とみなされていた。この二作品は、それぞれが42曲からなり、計84曲からなる大規模な練習曲集で、番号が進むにつれて難易度は少しずつ上がっていく傾向にある。彼の練習曲には、第4指と第5指が交差する当時としては「例外的」な運指が見られる(作品30、第3番)。

譜例3a クラーマー 《練習曲》作品30-3 ニ長調 m.14-15
譜例3a

クラーマーの初版では左手に運指が記されていないが、可能性としては、上のように4と5ないしは3、4、5が交差するパターンが考えられる。上の譜例に記した運指は筆者が記入したものである。

これはもっと後になって、ショパンが《ノクターン》作品9-1などでしばしば用い、探求した技法のひとつである。ここでは左手の5と4の指が交差する。以下の運指はショパンが書いたものである。

譜例3b ショパン 《ノクターン》作品9-1 m.18-19
譜例3b

多種多様の演奏技法を盛り込んだこの84曲のクラーマーの練習曲集の有用性は多年に亘り多くの人に認められたので、出版者に多くの利益をもたらした。1840年のある雑誌記事によれば、この作品の版権は、なおも高額で取引されていた。

しかし、カルクブレンナーは、練習曲のほかに、ピアノ・ソナタを重視している。彼はクラーマーの50曲を越えるピアノ・ソナタ中でも、とりわけ作品4(ニ長調、変ホ長調、ヘ短調)、作品6(ニ長調、ハ短調、ヘ長調、イ短調)、作品8(ヘ長調と長調)、そしてとりわけソナタ《最終L'ultima》作品53(イ短調、1812)を挙げている。カルクブレンナーによれば、この《最終》ソナタの第1楽章は、「クラーマーの他のソナタではめったに出会うことのない情熱」にあふれており、また彼の作品は、「滑らかな演奏」をもたらし、上手な「フレージング」を教えてくれるという。

ドゥセク
ドゥセクJan- Ladislav Dussek

一方、彼は、クラーマーのソナタにおける構成力と情熱に対し、ドゥセクにはその特質として、「その演奏と歌のような旋律のなかで示すうっとりするような表現」を認め、それらは「優美さのモデル」であるとしている。ここでも彼が重視しているのは、ピアノ・ソナタであり、とくに作品9(C57-59)、作品10(C60-62)、作品35(C149-51)(1)を挙げている。これらはいずれも18世紀の内に出版されたものである。このうち、1797年に出版された作品35は3曲のソナタ(変ロ長調、ト長調、ハ短調)は、いずれも非常に優美で華麗な装飾や、オクターヴ、三度の走句を多用しており、音の重ね方がいっそう厚くなっており、以後のベートーヴェンのピアノ・ソナタを彷彿とさせる。カルクブレンナーは、これらを含む彼の作品は「趣味を生成し、生徒が自身の中に持ちうる表現力を発達させる」のに役立つとしている。

ところで、「計算された大家の作品」の演奏を勧めるこの教師の念頭にあるのは、明らかにソナタというジャンルである。なぜ「すばらしいメカニスム、荘厳かつ滑らかな演奏、フレージングや音の美しいアタックの手法」が見出されるのは、「計算された大家の作品」、すなわちピアノ・ソナタなのだと彼は考えるのだろうか。

クラーマーやドゥセクが18世紀末から19世紀初期にかけて書いたこれらのピアノ・ソナタにおいては、W.A.モーツァルト(1856-1871)やF. J. ハイドン(1832-1809)といった先人のピアノ演奏技法がさらに推し進められ、楽器の改良によってもたらされた、いっそう技巧的なパッセージが積極的に採用されている。しかし、古典様式に特徴的な偶数小節単位の規則的なフレーズ構造からはほとんど逸脱することがなく、主題の展開は創意に満ち、かつ明快である。つまり、カルクブレンナーは、生徒にこれらの曲に、19世紀のごく初期に生まれた新しいピアノの技術を習得させると同時に、音楽の構造的・論理的枠組みに支えられた豊かな音楽表現を会得させるという教育的なメリットを見出していたのである。

さて、今回はカルクブレンナーがとくに演奏を勧めた作曲家の作品に触れたが、彼には、他にも生徒を教育する際に念頭においていた、ピアノ作品の分類があった。これらの分類をマスターしてこそ、ピアニストは一人前になると彼は考えていた。次回はこの分類を話題にし、彼の目指したピアニスト像をそこに垣間見ることにしよう。


1 Cのつく番号は、Howard Allen Crawが編纂したドゥセックの作品カタログの整理番号である。


上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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