ピアノの19世紀

13 都市のピアノ音楽風土記  アメリカ  その1

2009/08/17

 移民国家アメリカにおいて、いわゆるクラシック音楽がどのように浸透し、発展していったのかという問題は非常に複雑です。ボストンを中心としたニュー・イングランド地方が音楽文化の最初の発展の場所で、楽器工場も楽譜印刷工場もまずボストンから始まります。しかし、それぞれの移民の人種の傾向や都市や州による多様性を反映して、同じ東部地区でもニューヨークやその他の都市で非常に個性的な音楽が発展しました。たとえば、「バンジョー」や「バナナ」などの作品を作曲したルイ・モロー・ゴッチョーク(1829-1869)は南部のニュー・オリンズの出身です。彼の母親はクレオールで、父親はユダヤ系イギリス人です。ゴッチョークの名前からも分かるように、フランス文化圏との関連を示唆しています。この項目では、まずヨーロッパからの音楽が最初に渡来したとくにニュー・イングランド地域及び東部地区を中心に取り上げたいと思います。


1 ニュー・イングランド地方とヨーロッパ音楽の伝統

 ボストンを中心としたニュー・イングランド地方は、最初からアメリカの音楽をリードしていたわけではありません。オランダ人が入植したニュー・アムステルダム(現在のニューヨーク)や、フランス人が入植した南部のルイジアナは、商業的には早くから開けていました。しかし、その後のアメリカのクラシック音楽の発展において主導権を握るのはこのニュー・イングランド地方です。その重要な要因は、楽器産業でした。ピアノ製造だけではなく、多様な楽器産業がこの地域に興り、ここで生産された楽器がアメリカのクラシック文化の担い手となったのです。ピアノ産業についてみますと、初めてピアノに鉄骨を組み入れたことで知られるバブコック、20世紀前期までは世界最高のピアノ製造台数を誇ったチッカリングのほかに、ブラウン&ハレット、クリアー、レミュエル・ギルバートといったメーカーが19世紀前期に創立しています。これらのメーカーのなかで注目されるのはバブコックとチッカリンクでしょう。前者は、鋳鉄の鉄骨で強度を増したピアノ製造に端緒を切り開いたことで、後者は、スタインウェーやベヒシュタインなど近代ピアノへの道を開いたことで重要です。チッカリンクは晩年のリストも使用したピアノでした。
 こうした環境からボストンを中心にアメリカのピアノ文化が形成されていきました。初期の音楽家では、イギリス出身のベンジャミン・カー(1768-1831)やボヘミア出身のドイツ人、アントニー・フィリップ・ハインリヒ(1781-1861)、ドイツのヴァイマール出身のチャールズ・グローブ(1817-?)がおります。グローブは多作家で知られ、2000曲を作曲したと言われています。これらの作曲家を見ますと、イギリス出身とドイツ出身の人々によって占められているのがわかります。実際、この地域はイギリス人が自国の伝統をもっとも保持することを目指した地域で、音楽文化について言えばドイツ音楽が主流を占めていました。この傾向は20世紀前期まで続き、アメリカにおける特殊な文化を形成しました。
 これらの音楽家に続いて、1829年にアメリカのピアノ音楽の歴史において重要な役割を担う二人の作曲家が誕生します。一人がボストン出身のウィリアム・メイスン(1829-1908)で、もう一人がニュー・オリンズ出身のルイ・モロー・ゴッチョーク(1829-1869)です。メーソン家がボストンの初期の音楽史において非常に大きな功績を残しました。ウィリアムの父ローエル(1792-1872)は教会音楽の分野に足跡を残し、「ハイドン・モーツァルト協会教会音楽集」を編纂し、1838年にはボストンの公立学校の教育に音楽を導入することを実現しました。息子のウィリアムは早くから音楽教育を受け、1846年からピアニストとしての活動を開始します。1849年から54年の間、ヨーロッパでモシェレスリストに師事しています。彼がヴァイマールでリストを訪問した時期にブラームスリストを訪問し、面識を持ち、彼は、帰国後に企画・主宰した「メーソン・トーマス室内楽の夕べ」で、ブラームスの「ピアノ三重奏曲第1番」のアメリカ初演を手がけています。作曲家としても重要で、彼は約50曲のピアノ作品を残しています。たとえば「銀の森」(作品6)はヴィルトゥオーソとしての彼の姿をよく示している作品で、華麗な技巧が駆使されています。「ノベレッテ」(作品31-2)は、シューマンの影響が感じられ、またこの標題もドイツロマン派との結びつきを示しています。


2 ゴッチョークとアメリカ民俗音楽への覚醒

 メーソンがドイツロマン派の継承者であるとすると、クレオールの血を引くゴッチョークは、同じくヨーロッパに学び、ヴィルトゥオーソとして名声をしつつ、メーソンとはまったく異なります。前にも述べましたが、南部はニュー・イングランドとは異なり、フランス文化の影響が強く、また劇場などの建設は北部に先んじています。ゴッチョークの留学先はパリで、ベルリオーズショパンと交流を持ち、ショパンの賞賛を得ています。彼は1853年、メーソンと同じ頃に帰国します。しかし、彼の特に作曲面の関心はいわばアメリカ民俗主義へと向かっていきました。「クレオールのバラード」(作品37)「ガリーナ」(作品53)はキューバ舞曲で、上記の「バナナ」(作品5)は黒人の歌を取り入れています。その響きはドイツロマン派の響きとは異なり、土俗的で、しかし新鮮で活力に満ちています。「バンジョー」(作品15)などは、その後のガーシュインの登場を予見している作品と言っても過言ではありません。



西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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