ピアノの19世紀

08 都市のピアノ音楽風土記  ペテルブルク その2

2008/07/24

 「ジョン・フィールドとロシア」

 ジョン・フィールド は1782年にダブリンで生まれました。11歳の時にロンドンに移住し、クレメンティ に師事します。1802年、フィールドは、クレメンティとともにペテルブルクを訪れます。クレメンティに同行したフィールドのロシアの役割は、クレメンティ社製のピアノのデモンストレーション演奏、いわばピアノ販売のセールスマンでした。クレメンティはその後、ペテルブルクを去りますが、フィールドは1831年にロンドンに戻るまで、ロシアで活動することになります。ロシアにおいて、フィールドはおそらく、クレメンティからピアノ製造工場の運営などについても何らかの役割を任されたと思われます。
 ペテルブルクに留まったフィールドは、ピアノ教師、演奏家としてロシアの音楽界にその足跡を残すことになります。フィールドがロシアの帝都で、公にデビューしたのは1804年の四旬節の時期です。ペテルブルクのフィルハーモニー・ホールで開催された演奏会は、非常に意義あるものでした。このホールはベートーヴェン が作品を献呈したことで知られるガリツィン侯爵家の所有するものであり、ここはペテルブルクで最も重要な演奏会場となっていたからです。このとき、フィールドは自作の「ピアノ協奏曲第1番」 を演奏し、絶大な評価を受けます。この大成功がきっかけとなって、彼の元にぞくぞくと才能のある音楽家、ピアニストが終結することになります。その一人が、アルカディ・ラフマニノフ、大作曲家のラフマニノフ の祖父や、グリンカ でした。
 ロシアの音楽家で最初にその名を高めたのは、グリンカです。グリンカのピアノ曲を見てみますと、ショパン との関連を強く感じさせる作品が数多くあります。1839年に作曲されたノクターン「別れ」や、1847年作曲の「マヅルカの思いで」は彼のピアノ曲の傑作に数えられます。これらのグリンカのピアノ作品は実際、フィールドの作風を土台としています。グリンカはショパンの影響を受けて、この甘美な世界を開拓したのではなく、フィールドの「ノクターン」の音楽表現を最初に受け継いだのです。「ロシア・リリシズム」の源流はまさにフィールドにありました。
 ペテルブルクでフィールドに師事したドイツ人の生徒がカール・マイヤー(シャルル・マイヤー、1799-1862)です。マイヤーの名前は今日ではまったく知られていませんが、ピアノの教育者としてペテルブルクで高い声望を得た人物です。マイヤーは、教育者として多くの生徒をもち、その教育用に数々の練習曲を作曲しています。彼は1819年からペテルブルクでピアノ教師を行い、クレメンティ、フィールドのメトードの忠実な後継者でした。ローベルト・シューマン もその評論の中で、マイヤーのピアノ協奏曲(作品70)や練習曲集など数多く取り上げており、とくに「華麗なロンド」についてシューマンは、「魅惑的な和声の流れ、洗練された装飾、見通しの良い構造、内なる歌、そしてこの作曲家の作品を人々に親しみやすいものにしているピアノならではの語法」が表されている、と好意的に批評しています。
 フィールドの結婚相手はモスクワでのピアノの生徒ルイ・フュシルでした。彼のロシアでの活動が本格化するのは、ナポレオンのモスクワ侵攻の後で、国内が平穏を取り戻したロシアで彼は音楽での最高の寵児でした。彼の貢献は自身のピアノ協奏曲やノクターンの演奏だけではありませんでした。ドイツで評判を取ったシュタイベルトの協奏曲を演奏するだけでなく、1815年にはバッハ の3台のクラヴィーアのための協奏曲の演奏も手がけて、ロシアにバッハの音楽を紹介する役割も担います。この時点でのバッハの演奏は注目すべき出来事です。 ノクターンの創始者はフィールドであることはよく知られていますが、その最初の聴衆はロシアのサロンにつどう人々であり、ノクターン演奏の指導を受けたのはロシアのサロンの女性たちであったことはとても重要です。この土壌から、その後のグリンカや、さらにその後の世代のバラキレフリムスキー=コルサコフリャードフ らの、ノクターンやサロン小品が生み出されることになるからです。
 フィールドは先駆的な試みはとても注目に値します。実は、彼のノクターンのいくつかは、フィールドの作曲したピアノ協奏曲の緩徐楽章がもとになっているからです。フィールドはピアノ協奏曲を作曲すると、その室内楽版とピアノ独奏版を編曲しました。このピアノ独奏版からノクターンが一部の作品が生まれました。つまり、ピアノ曲のノクターンの音楽の背景には、オーケストラの響きが重なっているのです。ピアノ協奏曲の編曲は19世紀のピアノ音楽においてとても大切な問題です。
 フィールドの緩徐楽章の表現は、19世紀の協奏曲の書法や、緩徐楽章の書法の大きな模範となります。フィールドの影響はロシアからやがてドイツ、オーストリア、フランスへと広まっていきます。ショパンがフィールドの影響を強く受けたことよく知られています。しかし影響を受けたのはショパンだけではありません。フランツ・リスト は、その音楽評論でフィールド論を展開しております。ゆったりと流れる装飾豊かな表現はロシアだけではなく、19世紀前半の普遍的な表現を開拓したのでした。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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