ピアノの19世紀

08 都市のピアノ音楽風土記  ペテルブルク その1

2008/07/10

 ペテルブルクが音楽の中心地となるのはそう古いことではありません。ピョートル大帝がネヴァ河畔の沼沢地に新しい都の建設を開始したのは1703年のことで、1713年にこの町に遷都しました。大帝の理想は彼が特に気に入ったアムステルダムの町でした。ピョートルは息子や娘の結婚相手にドイツ系の貴族を選びました。その関係でドイツ人音楽家がこの町の最初の活動を担うことになります。1730年に最初の宮廷オーケストラが組織されますが、その楽長はドイツ人のヒュープナーでした。
 ペテルブルクはロシアの欧化政策の拠点となり、西欧の音楽家が数多く招聘されました。イタリアからは1776年、エカテリーナ二世の招きでオペラ作曲家のパイジェッロ が1784年までこの町で活躍しています。ロシアがピアノ音楽の面で第一歩を踏み出すのも外国人音楽を通してでした。

 クレメンティ のペテルブルク訪問

 19世紀前半におけるロシアのピアノ音楽の発展を考える上で重要な何人かの人物がいます。それはイタリア人でロンドンで活躍したクレメンティ、アイルランド出身でクレメンティに師事したジョン・フィールド 、フィールドの弟子でピアノ教育面で影響力をもったドイツ人のシャルル(カール)・マイヤー、シューマン とも親交のあったアドルフ・ヘンゼルト などの音楽家です。19世紀前期のロシアのピアノ音楽はこれらの外国人音楽家の礎の上に形成されました。
 ロシアにおけるピアノ教育で最初の重要な存在こそが、数多くのピアノソナタの作曲と、何と言っても不朽の練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム」 の作曲で知られるムツィオ・クレメンティでした。彼が最初のペテルブルク訪問をするのは1802年~03年の時期で、このときクレメンティは自身のピアノ教育メトードでレッスンを行っています。彼自身の言葉によると、1時間25ルーブルで、朝から晩まで生徒を教えました。クレメンティはロンドン時代ではレッスン料が非常に高額なことで知られていましたので、このレッスイン料もかなりの高額と思われます。クレメンティがペテルブルクで見出した生徒に、ドイツ人のカール・ツォイナーがいます。しかし、彼はドレスデン出身の音楽家であり、ロシア人ではありません。
 19世紀初期のペテルブルクの音楽水準は高くはありませんでした。クレメンティは手紙の中で、「何人かの外国人の音楽を除いては「真の」、「良い」音楽をまったく見出すことは出来ない。」と述べており、まだこの時期のロシアはピアノ音楽だけではなく音楽全般にわたって、揺籃期の状態でした。
 クレメンティが、ロシアにおけるピアノ音楽振興に貢献したのは、ピアノの指導によるだけではありません。彼は最新式のイギリスのピアノをペテルブルクにもたらしたのです。「クレメンティ商会」を経営するクレメンティのピアノは現在も博物館などで見ることが出来ます。クレメンティが何度もロシアに足を運んだ最大の理由は、自社製品のピアノ販売にありました。ロシアにピアノ販売の販路を拡大しようとしたのです。ブロードウッドという大メーカーに比べると規模の小さなクレメンティ商会は、ロシアという未開拓の地にピアノ販売の可能性を見出していたのです。彼はロシアで販売するピアノについて、このように述べています。「木材が歪んだり、そのほかの損傷が起きないように、それらをある期間、とても暖かい部屋に保管しなさい」ロシアの気候ととくに湿度について考慮していたことをうかがわせる発言です。
 クレメンティは弟子のジョン・フィールドをペテルブルクに同行させました。クレメンティ社のピアノを用いて、フィールドにデモンストレーション演奏をさせるためです。このとき、フィールドはペテルブルクにそのまま滞在し、ロシアのピアノ教育に大きな足跡を残すことになるのです。当時のロシアは、貴族階級や有産階級においてさえ、チェンバロは言うに及ばすピアノという楽器そのものがほとんど普及していなかったと想像できます。というのは、西洋音楽を演奏するのは、ドイツやイタリアなどから移住した外国人音楽家によって担われており、楽器の数が非常に限られていたからです。クレメンティはすぐにペテルブルクとモスコワにピアノ製造会社を起こし、自社のピアノ製造に乗り出します。クレメンティはロシアの音楽市場に強い関心を持っており、ペテルブルクにいるフィールドのもとを再び訪ねています。彼はロシアが音楽面で大きな可能性を秘めていることを直感したに違いありません。
 クレメンティの業績は、ピアノの普及だけではありません。ロシアにピアノ演奏の体系的なメトードを植えつけたのはクレメンティであったと言っても過言ではありません。上にも述べたクレメンティの作曲したピアノ練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム」こそが、ピアノのための体系的な練習メトードの最初で、この練習曲の上に、19世紀のピアノ演奏技術と練習曲が発展していくからです。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

【GoogleAdsense】
ホーム > ピアノの19世紀 > > 08 都市のピアノ音...