19世紀ピアニスト列伝

フランツ・リスト 第1回:誕生から学習時代まで

2016/09/12
フランツ・リスト
第1回:誕生から学習時代まで

 ショパンでスタートした本連載も、いよいよ最終章です。マルモンテルがヴィルトゥオーゾの両極端であるショパンリストを、本書の両端に置いたのは偶然ではないでしょう。第一段落では、両者の違いが美しい比喩で表現されています。
 第2段落以降は、ハンガリーからヴィーン、そしてパリでの学習経歴を急ぎ足で辿ります。

チェルニー 図 少年時代のリスト(シャルル・モットによるリトグラフ、フランス国立図書館、Gallicaより)

 ショパンの栄光が、追憶の時と詩情によって和らげられ、ぼうっとくすんだ微光と、ゆらめくメランコリックな光輪で輝く空の彼方に消えた星に喩えられるなら、リストの栄光は、閃光を放つ天体に似ているが、距離が近いことと、あまりに光線を放射しすぎていることが、その欠点である。なかんずく宿命を背負い、神与の才能で満たされ、あらゆる論争に備えて戦闘準備を整え、驚くべき同化能力に恵まれ、美と未知のものへの大胆な憧れに満たされ、尋常ならざる心身の素質に支えられ、そして並外れた演奏能力を有する――そんな芸術家、リストの揺りかごには、ありとあらゆる親切な妖精がいたのである。ヴィルトゥオジティの世界では、辿った道、克服した難技巧の領域で完成の域に達したという点から言えば、[リストと]同一線上に位置づけられうるのは、芸術家でただ一人、パガニーニだけである。この著名なヴァイオリニストと高名なピアニストは、同様の効果を追い求め、彼らの演奏の詩情がもつ、曰く言い難い魅力によって、同様の熱狂を搔き立てた。いずれも聴衆の偶像イドルであり、彼らは二人とも、一度ならずこの物神崇拝主義フェテイシズムに追従し、比類ない名声を維持するために、驚くべき才能に傷をつけた。彼らは、自ら不自然な手段を弄して、時には過剰なあの光の輝きを増大させたが、もっとも、時間だけがその光を和らげてくれることだろう。

 ペシュト近郊のハンガリーの村、ライディングに誕生したフランツ・リストは、9歳のときにはもう、神童の大集団に仲間入りした。優れた音楽家の父は、そこそこ才能のあるピアニストで、[息子が持つ]あのエリート的資質に相応しい入念さでもって、彼の初期教育を指導した。やがてリスト一家はヴィーンに移住したが、というのも、この若きヴィルトゥオーゾの音楽教育を、より良い環境の中で継続するためだったリストが著しいセンセーションを巻きおこした演奏会に続いて、彼の父は、芸術愛に背中を押されて、また、恐らくは、神がヴィルトゥオーゾに生を授けた多くの家族の伝統にも倣って1、この驚くべき才能の持ち主をすぐに舞台に立たせ、パリ、ロンドン、南フランスへと連れて行き、大成功を――それにかなりの収入も――手にした。

 我々は駆け足で、性急かつ危険を伴う才能活用の時代を通り過ぎたが、それは、リストがその個性を解放せしめた時期へと、筆を進めるためである。移ろいやすく、感受性豊かで、瞑想的な性質は、既に、彼を大いなる宗教的高揚へと導いていた。だが彼の音楽の学習は、まだ終わったわけではなかった。1823年、彼の家族はパリに移住し、父は彼を[パリ国立]音楽院に入学させようとした。というのも、そこでケルビーニの対位法の講義に出席させようと考えたのだ2。われらが[フランスの]大[音楽]学校は、当時、外国人に門戸を開くのを渋っており3、かくてリストの入学は認められなかった。すでに彼は、ヴィーンでサリエリから作曲の助言をいくらか受けていた。ケルビーニの指導は、恐らく、未知のものと芸術的に 奇異ビザールなものに傾いた、彼の才能のやや散漫な傾向――それは時に、独創性とは全く異なるものだ――に、有益な影響を及ぼしていたことだろう。リストは、仕方なく、もう一人の大家、レイハ4に頼らなければならなかったが、彼の教育はケルビーニの教授法とは異なっていた。但し、専門的な演奏教育の最中だったこの輝かしいヴィルトゥオーソは、しばしば多くのコンサート、頻繁な旅行によって妨げられていたのだから、はたして、間断なくレイハの助言を有効に活用していたかどうかは、疑問の余地がある。

  1. 当時、幼いヴィルトゥオーソの父は、各地で子どもに演奏させ、利益を得ることが慣例となっていた。
  2. リストの入学目的が、対位法のクラスだったのか、ピアノのクラスだったのかを示す決定的な証拠は、いまのところ見つかっていない。
  3. 当時のフランスは、復古王政下にあり、公的機関には排外主義的風潮があった。もっとも、当時の院長、ケルビーニはイタリアからの帰化フランス人だったのだが・・・。
  4. 過去の連載記事脚注5参照

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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