19世紀ピアニスト列伝

ダニエル・シュタイベルト 第1回

2014/07/07
ダニエル・シュタイベルト
ダニエル・シュタイベルト(1765~1823)
(フランス国立図書館電子資料サイトGallicaより)
ダニエル・シュタイベルト―第1回

今日からマルモンテル著『著名なピアニストたち』は第15章に入り、ちょうど折り返し地点に差し掛かります。今回登場するのはシュタイベルト(1765~1823)。シュタイベルトといえば、自作の主題による即興をベートーヴェンの前で披露したところ、ベートーヴェンは、今度はその主題を逆さまにして即興を披露しシュタイベルトが敗北を期したという逸話で記憶している方も多いことでしょう。

ピアノの流派の名を高からしめた著名な大家の中に、シュタイベルトの名を刻むことを我々は長らく躊躇ってきた。60年前には、我らの先人たちが賞賛したこの人物に対してある種の反動が起こった。今日、彼に与えられている地位はごく副次的ものに過ぎない。それでもなお、彼はいくつかの面において「天才的」であり、これが第一に我々を魅了した理由の1つである。芸術家としていくらか不完全でむらがあるにせよ彼は偉大である。しかし、個人としての彼の容貌は風変わりで、力強い才能と道徳的な欠点が対立しながら混ざり合っている。それでも、我々がこの伝記―我々はそこから好感の持てる肖像を導き出そうとすることを望まなかった―には有益な教訓と同時に、避けがたい悲しみが見出される。

ダニエル・シュタイベルトはクラヴサンとピアノ製作者の息子で、1764年にベルリンで生まれた。これは、少なくとも[音楽家事典でシュタイベルトについて書いている]フェティスの個人的見解であり、1755年生まれとするもうひとつの見解と矛盾している。私は、メロー1とファランク2が確証した見解に寄り添うことにする3。このヴィルトゥオーゾの少年時代についての詳細については、どの伝記作者も簡潔に済ませている。彼らが言及しているのは、ただ彼がプロシア王家の王子フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の庇護の下にあったこと、そして若きシュタイベルトが王子に紹介され、シュタイベルトの恵まれた素質に惹かれて彼の音楽教育の世話を著名な教師キルンベルガー4委ねたということだ。だが、強情な生徒で従順ということを知らぬシュタイベルトは、この熟練教師のレッスンから不完全にしか得るところがなかった。子どものときも青年時代も、彼は自恃独立の心が強く、体系的な教育に従うことを全く知らなかったのだ。彼が相対的に劣っていてむらがある第一の要因はこうしたところにある。いかにすばらしい素質があっても、導きや助言なくしては決して理にかなった完全性に到達することはできない。流派に属さない芸術家たちというものは、免れ得ない欠陥によって常に見分けがつくものだ。

シュタイベルトの初期の成功については殆ど資料がない。だが、このように詳細がないということは、シュタイベルトがその才能をにわかに仕立て上げるように強いられたのではなく、前途にある何年もの歳月を費やした結果、彼が自分のためにレパートリーを創り上げ、自身を名声へと導くこととなる新しい[ピアノ演奏の]効果を見出したという証拠である。彼は虚栄心が強く稼ぎに目のない両親によって搾取される神童にはありがちな災難5を避けることができた。1789年、十分な準備をしたのに続いて、ミュンヘンで最初のピアノとヴァイオリンの為の[複数の]ソナタを出版したのち、一連の終わりなき旅へと足を踏み出した。それは地味なデビューだった。作品の大胆な熱気はまだ、後に魅力的で独奏的な着想を殆ど惜しまなくなるこの芸術家を支配していなかった。ザクセン王国とハノーファーで多くのコンサートを開いてから、彼はついにパリにやってきた。ここで彼は出版社ナデルマン兄弟の先任者であるボイエール6のところで愛想よく迎えられ、愛情あふれる世話と強力な庇護を受けた。このベルリンの芸術家は、この友人の出版者にそれまで出版されていた作品を新作という名目で売却した。ボイエールは訴訟を起こそうとしたが、シュタイベルトはこの一件をもみ消すために、補償として彼の最初の二つの協奏曲の所有権を譲渡した。

  1. 過去の連載参照
  2. ファランク:アリスティード・ファランク(1894~1865)が妻ルイーズと編纂し、彼の没後はパリ音楽院教授のルイーズが継続して完成させた24巻からなる『ピアニストの至宝』(1861~1874)に収められた伝記記事。16世紀以降の主要鍵盤楽器作曲家の作品を収めた膨大なこの曲集には、作曲家ごとに解説がついている。
  3. 現在では、1765年10月22日誕生が正しい生年月日とされている。
  4. キルンベルガー:Johann Philipp Kirnberger (1721~1783) : ベルリンで活躍した作曲家、理論家。J. S. バッハに学び、ベルリンではC. P. EバッハやJ. J. クヴァンツと並び当時もっとも有力な理論家として知られた。
  5. 当時は才能ある子どもをあちこちの街に連れ回して収入を得ようとする親は多かった。リストの父も教育より演奏旅行を優先させた。
  6. シャルル=ジョルジュ・ボイエールはフランスの出版者。1796年にナデルマンに在庫を売り払った。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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