19世紀ピアニスト列伝

F.ショパン 第2回:ペダルの達人

2012/12/11
ペダルの達人

 本日ご紹介する文章では、著者のマルモンテルがショパンと初めて出会った時の印象、ショパンの演奏の特徴について述懐しています。ペダルの巧みな使用、ニュアンス付、ぼんやりとかすむような音響がショパンの演奏の特長として挙げられます。
読解に当たりマルモンテルの文章のスタイルにも注目しておきましょう。マルモンテルはロマン主義の典型的な語彙でショパン像を描き出しています。特に最後の第9段落。亡霊や妖怪といった幻想的世界、夜のイメージはロマン主義文学、絵画の主要な題材でした。ショパン自身は音楽と文学的題材を緊密に結びつけようとしたベルリオーズやリストのように、同時代の芸術界のロマン主義の旗振り役にはなろうとしませんでした。進んでロマン主義の旗手を買って出た彼らとは違って、「ロマン主義者ショパン」というイメージは後世の人々の語りによって作り上げた部分が大きいと言えるでしょう。

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1832年1、ショパンはパリに到着し芸術界に姿を現した。この年はまさに私にとって様々な意味で忘れられない重要な時となった。ヅィメルマンのクラスで一等賞を獲得したのだ2。その日の音楽の夜会で私は光栄にもショパンとリストに紹介されこの二人の偉大な巨匠を前にして若気に任せて演奏したが、この時初めて両者の驚異的な才能の真価を知ったのだった。ショパンの敏捷で神経質な指で演奏されると、いかに困難で神経を使う音の線にも、いかにほっそりとした輪郭にも、ニュアンスと抑揚が上品かつ繊細に与えられていた。彼の手にかかると、感動的で博識に裏打ちされた優雅でまた表情豊かな旋律のフレーズが浮き立ち、輝き、彩られた。彼の演奏に耳を傾けながら、聴衆は広がる感動の魅力に身を委ねていたが、この感動はショパンの繊細な素質、病的で感受性の強い気質から来ているのだった。つまりショパンは真に音楽に過敏な人であり、これをオベール3は一言でこう定義した。「彼は生涯、死と隣り合わせに生きていた」。
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基本的にショパンのヴィルトゥオーゾとしての才能はボヘミアの作曲家でバッハの熱烈な信奉者であったジヴニーのもとで培われた。若きヴィルトゥオーゾのピアノ学習に与えられた熟練の指導と、とりわけ繊細で感傷的な性格のおかげで、ショパンの演奏は早い段階であの独自の魅力と類まれな気品を備えた個性を現した。こうした性質は、後に表現の領域で彼の優越を威風堂々と示すこととなるべきものだ。博識の音楽家でワルシャワ音楽院の教授エルスネルは当時16歳だったショパンに理論と和声と書法を教えた。この作曲家については後述することにして、ひとまず偉大なヴィルトゥオーゾに話を戻そう。
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均質に動く指に加え繊細で完全に独立した両手はクレメンティ派に由来している。ショパンはクレメンティの数々の練習曲4をいつも生徒に勧め、その価値を認めていた。だがショパンの全く独自な点は、音の運びと抑揚付けの驚くべき技法にあった。ショパンは全く個性的な打鍵法、しなやかなでふわりとしたタッチ、彼のみがその奥義を知るおぼろげに流れゆく響きの効果を手中に収めていた。
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ショパン以前のいかなるピアニストもあれほど敏感にそして巧みに、ペダルを交互に、あるいは同時に用いることはなかった。現代のヴィルトゥオーゾの大部分にあっては節度をわきまえず絶えずペダルを使用するが、これは重大な欠点であって、その効果は繊細な耳に疲労と苛立ちを与える。だがショパンは逆に絶えずペダルを用いつつも、聴く者に驚きを与え魅了する、うっとりするような和声、旋律のざわめきを勝ち得ていた。卓抜なピアノの詩人ショパンは、自身の着想を理解し、感じ取り、表現する術を心得ていた。ピアニストたちはこれをしばしば模倣しようとしたが、実際に立ち上がるのはぎこちない模倣以外の何物でもなかった5
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ショパンの響きの効果と画家のある種の描き方の間に比較点を求めるなら、この偉大なヴィルトゥオーゾはちょうど熟練の画家が光と周囲の大気を扱うように音に抑揚を与えていたと言える。旋律のフレーズと走句の巧妙なアラベスクを、夢現の中間色の中に包み込む。これが技法の極みであり、まさにショパンの技法なのだ。
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現実を遠く離れ過度に感受性豊かなショパンの想像力は霊界に赴き青白い亡霊や恐ろしい怪物どもを好んで呼び出した。この音楽詩人は薄明かりのなかで即興演奏して悦に入り、そのぼんやりとした微光が夢想的な着想、哀調を帯びた呻き、そよ風のため息、夜の暗澹たる恐怖に、ぎょっとするような要素を添えた。
  1. 「実際にはショパンがパリに到着したのは1831年。
  2. ルモンテルは当時パリ音楽院のピアノ科で教授P.-J.-G.ヅィメルマン(1785~1853)に師事していた。音楽院では一等賞を取るとその科を修了することができた。
  3. D.-F.-E. オベール(1782~1871)。1842年よりパリ音楽院の院長を勤めており、マルモンテルは彼の好意から教授に任命された。
  4. クレメンティの100曲よりなる教育的な曲集《パルナッソス山への階梯》を指す。
  5. 原注:「とはいえ、幸いにもこのヴィルトゥオーゾの貴重な美点を体得した特権的な芸術家の中には、プレイエル婦人、ゴットシャルク、F. プランテ各氏がいる。」

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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