ドビュッシー探求

前奏曲集第1巻より第4曲「音と薫りは夕べの大気にただよう」

2007/12/07

今回の曲目
音源アイコン 前奏曲集第1巻より第4曲「音と薫りは夕べの大気にただよう」 3m59s

詩人ボードレールの「夕べの調べ」の中の一節そのものが標題となっています。すでにドビュッシーは初期に、まだワーグナーの影響を残す形でボードレールの5つの詩による歌曲を作曲しています。ボードレールの詩は、一読してわかりますが、およそ学校教育などで大切にされている道徳観や美意識とは対極にあるものです。
 全体にはゆっくりとした3拍子のワルツであると感じますが、5拍子になったり、また、3拍子の中でも音楽は4拍子になっているなど、極めて自由な拍子とリズムの中に、従来の和声進行ではない形のさまざまな響きの揺らぎが表現されています。また、動機の中に4度音程が多数用いられていることも特徴の1つです。
 ボードレールの愛した、退廃、耽美などの陰の世界を彷彿とさせる世界が、ドビュッシーの優れた筆致によって独特の美意識で表現された傑作だと思います。

演奏上の問題について
 この作品は、たった53小節ですが、あまりに内容が豊富で、長文になってしまいます。
 1,2小節ですが、まず、前にも書きましたとおり、最初のバスのaは、前の3曲がずっとバスがbを基調としているところで半音下がることであたかも解決したかのようなニュアンスをもちます。4曲続けて演奏した場合、その質感を考えて演奏したい音です。この2小節の和声進行はさまざまな解釈が可能だと思います。1小節目の2拍まではA-durのIの和音として、3,4,5拍の和音は独特です。他の調の借用和音と考えても良いでしょう。そうでないと考えるとすれば、もしもgがgisであればVの和音の5音下方変位と考えられます。従って、導音のgisが半音性ってgになっていると解釈すれば、教会旋法のニュアンスを含むVの和音の5音下方変位、つまり、非常に曇ったドミナントのニュアンスが明るいA-durに複雑な揺らぎを与えています。5拍目から2小節の第1拍のバスのラインe→aは、V→Iに固有のバス進行ですが、ここにドビュッシーは和音を与えていません。これは2小節目の4,5拍も同様です。はっきりと確定した和音をつけないことで、第3曲の最後と同様に、曖昧なニュアンスを出していると考えられます。しかも、2小節目の4,5拍はIの和音の第3音で、更に曖昧なニュアンスになっています。一応、この2小節をトニック→ドミナント→トニック→ドミナント→トニックと考えれば、先ほどの導音を下方変位したgは、前後でa→g→a→gと連結され、他にa→b→a→bやcis→d→cis→d→cisなどのラインが響きとして考えられます。ユニゾンのメロディーとバスのラインa→e→a以外に、こういった和音の揺らぎを与える変化を意識して演奏したいところです。メロディーには4度上行のe→aと4度下降のfis→cisが特徴的ですが、これが3小節以降の動機の断片として執拗に用いられます。
 バスのaの音の扱いにも、1~8小節の間に素晴らしい工夫があります。最初は5拍子で四分音符5回で1回バスが現れますが、3小節からは4拍子の1拍目として2回現れ、次は2分の2拍子でバスが2回、最後はヘミオラ(2分の3拍子)で2回現れます。つまり、徐々にバスのaの出現するテンポが上がり、上声部の縮節とあわせ、強弱によらない推進力で9小節以降につながっていくのです。
 3~4小節の上声部は、2小節最後の4度下降音型fis→cisの余韻として3回このモチーフが繰り返されます。5,7小節では、これが増4度上に現れ、あたかも石を水面に落としたときに起こる水面の揺らぎのように、d-mollの減7和音の重音上行フレーズとして表現されます。3小節から5小節の1拍目までの中声部はEs-durのV7和音、E-dur のV7和音の揺らぎが、ボードレールの詩の中にある、さまざまな眩暈、渦巻きのようです。しかし、突如、5小節2拍ではそれまでのV7和音と異なる、下からas b d eの和音が響きます。この和音は、それまでの物憂い揺らめきや眩暈を突然さえぎります。そのさえぎる原因となっている音はeです。これがfesであれば、その前のEs-durのV7和音と近い関係にあるas-mollのII7和音なのですが、上声部に目を向けると、f-mollのV9の響きもあります。さらにさらにバスに目を向けるとaがあり、これと中声部のdesを異名同音でcisと読んで6小節ではd-mollのV9の和音の響きになります。7,8小節では、8小節の1拍目にさらに上声部がcisまで上行して更に不安定さを増す以外は同じです。
 つまり、1つの音が複数に解釈され、さまざまな揺らぎはさまざまな調の和音として複調的に響き、生き物のように発展していきます。従来の各種Vの和音がIへの従属としてとらえられていた状態から独立したものとして扱われることになったわけです。そして、これは、この作品と同時代のスクリャービン後期の世界でも扱われることになるのです。また、こういった世界が、ほとんどピアニシモだけの世界で、極めて少しずつの、しかし明確で複雑な形で語られるのです。また、当然のことですが、バス、中声部、上声部が複層的、立体的に同格で響きあわなければいけません。
 9~12小節は全音階和音a h cis dis eis gの響きの中にfis-mollのIの和音が揺らぎとして扱われています。また、各声部は全音または半音の滑らかな順次進行で前の部分よりもより横に流れていきます。9小節目の上声部cisdis disは冒頭のモチーフと同様のリズム動機です。12~17小節は大きく見るとFis-durのIの和音に向かうように聞こえます。特に15~17小節はあたかもV9の響きでその後a Tempoに戻ったときにIの和音fis ais cisに戻ると思わせて、実は同じ和音のままで、結局解決せずに半音下のF-dur のV7との揺らぎが23小節まで続きます。22小節3拍目からは縮節がかかり、より運動エネルギーが増しますが、ここでもドビュッシーは大袈裟にやらないようにun peuを書いたり、クレッシェンドしてもsubitoでPにしたりと、可能な限り狭い枠の中での微妙な味わいにこだわっています。24小節で冒頭に再現しますが、23小節の3拍目は、A-dur の導音gisが下方変位しています。結局、まったくカデンツを使わずに24小節で冒頭のテーマを再現しています。27小節までは冒頭とほぼ同じですが、27小節の4,5拍目は音価が冒頭の部分と比べて伸びており、ここで自然ritardandoがかかります。27小節では、その直前のD-durのV7和音から半音下がってDes-durの1,5音であるdes , asの上に借用のV9和音が響きます。これはPlus lentとありますが、それよりもその前に比べてずっと曇って物憂げな響き(「限りなく暗い虚無」)にする必要があります。
 28小節は27小節の縮節ですが、29小節は音にさまざまな解釈があり、和音をなかなか特定できません。規則性を優先すれば、この作品で特有の4度進行を4度及び5度の重ね合わせでできた和音が上声部、下声部は減7の和音の半音階下降と言えそうですが、そうすると2拍目第1音の右手のfと左手のgesがぶつかり、3拍目でも同様のことが起こるため、版ごとにいろいろ解釈があります。ドビュッシーは並進行和音を多く用いますが、たとえば、第1曲デルフィの舞姫たちの14小節の最後の和音などのように、例外的なものを含めることもあるので規則性を優先するという論理は一概に通用しません。30~31小節は、バスのes→asの進行をみてもわかるように、珍しくII→V→Iのカデンツを感じさせます。
 31~40小節は、冒頭の部分を縮節し、クライマックスを作っています。31、32小節の32分音符はそれぞれ7連符と6連符で微妙に異なります。ぼくは、1回目はmfで少し積極的に、2回目はpで少しゆるんで表現するためにドビュッシーはこういった違いを書いたのだと思います。もちろん、聴いているだけの人に感じられるようなものではないと思います。ここがドビュッシーの面白さでもあります。34~36小節にかけては、メロディーはバスにありますが、ハ調のミクソリディア旋法のようです。しかし、付いている和音は、34小節の最後の和音を除いて長3和音です。この34小節最後の和音はdesが不思議なニュアンスをもって響きます。この和音だけが曇り、他の和音は明るい感じがします。並進行の3和音としてのニュアンスとともに、連結が半音関係にある音、たとえば、34小節3拍目からならd→des→dなどの響きを大切にすると良いと思います。
 37小節から40小節は31小節に対し、半音上にずれたA-durで再現されます。これはさらに縮節がかかっていて緊張感が伴います。しかも34小節の3拍目からの3つの和音の断片が、長3和音でなく、調の異なるV9の根音省略形やV7を連結することで挿入され、交替頻度が早まり、クライマックスを迎えます。もちろん、フォルテは存在しません。この37~39小節は、シャープ系とフラット系の和音で微妙に音色を変えると良いでしょう。40小節はC-durのV13の根音省略形ととらえれば、41小節はカデンツによりIの和音にいくところですが、その期待は外れ、半音高いcis-moll の4音付加和音、しかも3音を省略しているために明確な長調、短調に感じないようにした和音にてあります。しかも、これはcis-mollのI系和音ではなく、44小節の3拍目を見れば、fis-durの借用V9和音の導音を省略した形と見ることができます。このような半音ずれた調の和音連結は、晩年の最高傑作、エチュードでは多用されており、たとえば、オクターブのためのエチュードであれば、12~15小節や21~23小節など、枚挙に暇がありません。さて、この和音は導音を省略しているので、44小節の3拍目のI和音がとても意外に響きます。しかも、42小節の2,3拍目、44小節の2拍目は全音階和音を使っているのでそこだけが更に浮遊した感じになっています。42小節の細かい強弱記号は上行音型であることだけが理由ではなく、それによるものと考えるべきでしょう。
 44小節の4,5拍目はGis-durのV9の根音省略形ととらえてもよいですが、その前後のFis-durのIの和音と、すでに機能的関連はないので、単純にFis-durのIの和音のfisがeisとfisisに揺れているというようにとらえるだけで十分だと思います。ドビュッシーは同じ繰り返しを好みませんから、当然、45小節の3拍目は、44小節の4,5拍と異なり、gis-moll のV9和音になっています。その後、45小節の4,5拍は全音低くずれたfis-mollのV9和音(根音省略形)になっていますが、5拍目ウラのソプラノのaisのオクターブは非和声音です。これは、当然のことながら、2小節目の3~4拍目にある4度下降のモチーフにするために本来のhがaisに変わっています。そして、46小節では更に半音下がったf-moll のV9の根音省略形です。この1拍目ウラのaisも本来はbであったものが同様の理由で変化しています。また、同じ音型で下降してきて、最後がフラット系の響きで曇るところも意味のあるところだと思います。
 この45小節の3拍目から46小節の1拍目までの右手は技術的に非常に困難な場所です。4分音符の和音連結を滑らかにおこないつつ、その響きの中に、立体的にソプラノの4度下降モチーフを、あたかも別の楽器で、「遠くの方で」鳴っているように弾かなければいけません。演奏上のヒントとしては、4分音符は腕の重みをかけ、8分音符の3連符は軽く、leggieroで弾くようなイメージだと思います。いずれにしても、8分音符の3連符を弾いているときも、耳で4分音符の和音の響きが聞こえていなければいけません。ここはなかなか複雑で、46小節の1拍目で半音ずれたことによってできたaと4度下行のeをキーにして3拍目の6連符の最初の3音でA-durのIの和音の分散和音、そして、 最後の2音でB-durのIの和音(3音省略)、そして、47小節のI拍目でF-durのV7の和音に並進行しています。大きく見れば、46小節のI拍目のdesは47小節I拍目のcに揺れ、この揺れが48小節では縮節がかかって49小節のPlus retenuを一層引き立てます。
 更に、45小節のI拍目のaisは46小節2拍目のaに収束し、そのまま最後までバスにaのオルゲルプンクトが鳴り続けます。これが1~3曲のバスの基音bからこの作品のバスの基音aへの連結の縮節だと考えるのは考えすぎでしょうか。
 49小節ではfis-moll を感じさせたあと、A-durのV7という、やっと型どおりの和音が5拍目に登場し、50小節でA-durのIに解決します。ここからは楽譜に書いてあるとおり、中声部の和音のメロディー、バスのオルゲルプンクトのa、ソプラノの、フラジオレットを使った弦楽器のような響きの和音という3層を独立して立体的に響くように表現しなければなりません。さらに、50小節から53小節で2回メロディーが繰り返されますが、細かい強弱やテヌートやスタッカートの違いをすべて表現しましょう。51小節の細かい強弱は2小節にはなく、バスのaは、最後の音にだけテヌートがついています。また、「遠くから聞こえるホルンのように」「さらに遠くで」といった標語をしっかりと守り、消えていくように終わりたいものです。
 複雑なリズムと和声、それに響きの豊かさ、どれをとっても、前奏曲集第1巻全12曲の中で傑出した作品で、曲の神髄を伝えるには極めて高度なタッチと和声の感性と、耳が必要だと思います。
 最後に、ボードレールの詩、「夕べの調べ」の一節を載せておきましょう。

「落日は、凝るその血の中に 溺れた」


金子 一朗(かねこいちろう)

1962年東京都に生まれる。早稲田大学理工学部数学科卒。本職は中・高等学校の数学科教諭。ピティナピアノコンペティション全国決勝大会で、ソロ部門特級は2003?4年ともに入選、コンチェルト部門上級で2004年に奨励賞、グランミューズ部門A1カテゴリーで2004年に第1位受賞。2005年における同コンペティション ソロ部門特級でグランプリ(金賞)および聴衆賞、ミキモト賞、王子賞、日フィル賞、文部科学大臣賞、読売新聞社賞、審査員基金海外派遣費用補助を受賞。 第1回ザイラー国際コンクール・イン・ジャパン・フリー部門第2位。第1回北本ピアノコンクールH部門第1位、合わせて全部門での最優秀賞を受賞。2004年10月にリスト国際コンクールマスタークラスにてレスリー・ハワード氏の公開レッスンを受講、オランダ大使館にてリスト国際コンクール主催の演奏会に出演。2005年1月、円光寺雅彦指揮東京フィルハーモニー交響楽団と共演。2005年5月、テレビ朝日「題名のない音楽会21」に出演し、現田茂夫指揮東京交響楽団と共演。 これまでにピアノを角聖子、神野明、北川暁子、K.H.ケンマーリンク、森知英、田部京子の各氏に師事。また音楽理論を中村初穂氏に師事。
著書に『挑戦するピアニスト 独学の流儀』(春秋社刊 2009)

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