「チェルニー30番」再考

32. 「30番」再考への前置き

2014/12/15
第二部「30番」再考
32. 「30番」再考への前置き

さて、ここまで1820年代から30年代における練習曲の変遷を辿り、さらに「チェルニー30番」が出版される1856年までにパリで出版された彼の練習曲のタイプを見てきました。最後に、再び連載の冒頭話題にした「チェルニー30番」を、これまで見てきた練習曲の流れを考慮しながら検討して、この連載を閉じたいと思います。

 ところで「チェルニー30番」のオリジナル・タイトルは何だったか覚えていますか?オリジナルのタイトルは《30のメカニスム練習曲》作品849だったということを書いたのは連載第1回でのことでした。そして、第2回の連載で、「メカニスム」という概念が、様式や表現といった演奏・作曲の精神的な側面とは切り離された、もっぱら身体の物理的な動きのことを指す、ということを確認しました。こうした演奏観は、人間という実体が物質的な身体と思惟する心という二つの異なる存在から成り立っていると考える、17世紀フランスの思想家デカルト(1596~1650)的な心身二元論の上に成り立っています。

 この心身二元論の前提は、ピアノ演奏を論じる上で非常に都合のよいものでした。それによれば次のようにピアノ芸術を捉えることができるからです。ピアニストが知性で把握する作品の構成や作曲者の思考は精神の働きによって行われる。ピアニストが作曲家でもあれば、着想を作品として形にすることも知性の働きです。一方、作品を音として響かせる手段としてのテクニックは、物質的な身体のコントロールにかかっています。ならば、まず演奏者は精神的な目的へとできるかぎり近づくことを許すような、自在な身体を手に入れ必要がある、ということになります。

 そのためには、機械的な訓練を何度も繰り返し、体を精神的な理想を実現するのに最も相応しい状態にしなければなりません。身体が自在性を獲得すれば、どんな難所も無意識のうちにこなし、精神的な理想へと近づける、こういう考え方が19世紀中葉のエリート音楽家の間で培われていました。

しかし、ここで強調したいのは、「チェルニー30番」は確かに演奏の身体的な側面である「メカニスム」をタイトルに掲げてはいるものの、実はそれ以上の配慮のもとに書かれが練習曲だ、ということです。その配慮は、「様式」という観点です。様式とは、文字通りの意味に従えば「やり方」や「流儀」ほどの意味です1。では練習曲における様式とは一体何でしょうか。ここでは、「ジャンル」とほぼ同様の意味と理解するとよいでしょう。例えば、これまで見てきたチェルニーの練習曲集(とくにタイプ③に分類したもの)の中には、ノクターンや無言歌といったジャンルが組み込まれていました。分散和音の伴奏、弱起で始まる歌唱的な旋律、そこに散りばめられた即興的な装飾が特徴であれば、その作品は、当時の作曲家が共通に認識していた一つの作曲ジャンル、つまり「ノクターン」という類型化された書法だと言うことができます。このような観点で「30番」を見ると、30曲の中にもこの時代の典型的な音楽ジャンルに基づく曲が含まれているのです。では、次回からどの曲がどの様式またはジャンルと共通項を持つのか、幾つかの例を挙げながら見ていきましょう。

  1. 詳しくは下記から始まる様式に関する一連の記事を参照。
    http://www.piano.or.jp/enc/fb/view/90/

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

【GoogleAdsense】
ホーム > 「チェルニー30番」再考 > > 32. 「30番」再...