会員・会友レポート

モスクワ訪問記~カプースチンに会う/川上 昌裕先生

2003/03/05

前編 録音現場にて

ニコライ・カプースチン氏と筆者
ニコライ・カプースチン氏と筆者
前編

 ニコライ・カプースチンという作曲家がいる。3~4年ほど前に、日本で一部のピアノファンたちの間でブームが起こったが、それは作曲家本人による演奏の録音がCD化され、(株)トライエムから発売されたのがきっかけであった。限られたレパートリーでは飽き足らなかった若い演奏家たちが、従来のピアノ音楽では味わえなかったジャズの斬新な響きとリズムを伴ったこの独特な音楽の魅力に惹きこまれ、自分で演奏してみたいという人も現れた。ニコライ・ペトロフの演奏でカプースチンに出会ったマルク=アンドレ・アムランが、2000年には日本でのリサイタルで「ピアノ・ソナタ第2番」を取り上げ、数年遅れてワディム・ルデンコは第9番のソナタに挑戦した。ちょうどそれと前後して、東京音楽大学ピアノ演奏家コース出身のカプースチンの虜になった4人の若手たちが、オール・カプースチンのプログラムで二度の公開演奏会を開いた。(注1)
クラシック音楽の側から見ると、このようなジャズみたいな音楽は真面目には受け入れがたいように見えるが、カプースチンの記譜した楽譜を丹念に読んでみると、実はクラシックの厳密なスタイルで書かれていることに驚かされる。それは一貫した書法であって、ジャズ特有の即興演奏がすべて音符として細部まで書かれ、本来即興で弾かれるような部分をすべて最良のもので埋め尽くし、そしてそれを"ソナタ形式"などの美しい構成を用いて1曲1曲をまとめているのである。作曲者のこだわりもまさにそこにあるようだ。聴く者を簡単に飽きさせない彼の音楽の魅力は、そのような緻密な作曲に理由があるのだと思う。現時点で作品番号は108を数え、その創作意欲はいまだ衰えていない。

 実はこの4月に、作曲家自身の演奏による新しい録音がモスクワで行なわれると聞いて、トライエムのプロデューサー、鮫島奈津子さんのご好意を得て、私も同行させていただくことができた。作曲家は今年66歳。公開での演奏活動は退いているものの、録音は現在までずっと行なっていて、数年前からトライエム社により続々とCD化(注2)されている。今回、4人でモスクワを訪問した私たちは、このカプースチン本人が演奏する録音風景に立ち会わせていただくことができた。この録音現場を見学した時の印象を、私の感想も交えながら少し披露させていただきたいと思う。

 カプースチンのピアノ作品は、まず一番最初に「超絶技巧」というイメージがくるほど、演奏が難しいことでも知られているが、作曲家(凄腕のピアニストと言っても良い?)自身による録音を聴くとどれも本当に素晴らしいので、是非とも生の演奏シーンを一度見てみたいと思っていた。私たちが見学できたのは、録音第3日目で、この日は「ピアノ・ソナタ第12番」の収録だった。録音が終わるまでは、私は作曲家とあまり会ったり話したりしないつもりであったが、この日録音会場のモスクワ放送局に到着すると、予定に反して入り口で作曲家とばったり会ってしまった。収録前でナーヴァスになっているかもしれないと思ったので、口数も少なく目で挨拶だけして、すぐスタジオ隣接のモニター室へ入った。鮫島さんのほかには、作曲家お気に入りのいつも仕事を一緒にしているという有能な地元のロシア人技術者やスタッフが3人ほど。彼らにも挨拶をして、私たちが腰を落ち着けるやいなや、もうピアノの音が聞こえてきた。モニターを見ると、カプースチンがソナタ第12番第2楽章の冒頭の速い部分をさらい始めている。パッセージが難しいとみえ、指慣らしのために何度も弾き直していたが、やがて手が暖まってくると、数小節を弾き進めた。その瞬間、私たちはまだ未聴の「ソナタ第12番」のサウンドに、それまでCDで聴いて感動していたカプースチン独特の魅力と同じものが聞こえてきて、「はるばるモスクワまで足を運んだ甲斐があった!」という興奮が沸きあがってきた。カプースチンの生の演奏に今、立ち会っているのである!

録音作業の様子
録音作業の様子

 このソナタ第12番は、全体が2つの楽章から成る。楽譜には「H.Takaokiに献呈」(英語で)と書いてある。録音はまず第1楽章から始まった。全体をまず通して半分くらいずつ弾いた後、もう一度最初に戻って、細かいセクションごとに納得のいくテイクを撮っていく。こういう綿密なクオリティーを求めていく姿勢が、まさにカプースチンだと思った。一つでも音が抜けたらやり直すという、一貫した撮り方である。カプースチンの手が止まるたびに、モニター室のイワノフ氏から新しいテイクの掛け声が容赦なくかかり、作曲家は休みなく弾き続ける。途中で弾きやめても、またどこからでもすぐに"in tempo"で弾き始められる技量に、やはり並大抵のテクニックの保持者ではなかったのだなと改めて思った。普通は、速いテンポのところから弾き始める場合、出だしは微妙にゆっくりになってしまうものである。

第2楽章もかなりハードなAllego assaiで、同様に細かく撮っていく。この楽章には難所もいくつかあり、演奏するのはかなり大変だろうと察した。このような録音現場は自分の経験から言っても身を削られるような思いがした。最難関のコーダ部分も最後まで納得いかず、いくつもいくつもテイクを撮っていたが、やがて無事にソナタ第12番の収録はすべて終了した。その後、この日はあと「3つのエチュード op.67」を全曲撮る予定だったようだが、ゆったりしたテンポの第3曲を収録し終えたら、さすがにカプースチンはもうその日のすべてのエネルギーを使い果たしてしまったと見え、時間がまだ大分余っていたにもかかわらず、今日の収録はお開きとなった。私たちがモニター室に立ち合わせてもらったことが、無意識下でなんらかの影響を与えていたとしたら誠に申し訳ないと思い(杞憂だといいのだが)、翌日の見学は遠慮することにした。

 収録も無事に終了した翌々日には、カプースチン夫妻を囲んで夕食をともにさせていただいたり、さらにその翌日には、なんと作曲家本人の前でカプースチン作品を数曲演奏させていただくこともでき、数々の貴重なアドヴァイスを直接受ける機会を得たのである。その経緯については後編で紹介することにしたい。

注1: 山崎 裕、森 浩司、濱本 愛、石井理恵...の4人
注2: 2003年6月30日にトライエムのクラシック事業が閉鎖。今後のリリース体制は未定(2003/7/22追記)


後編 作曲家の魅力に触れる

会食後の記念写真
会食後の記念写真
作曲家の魅力に触れる

 このモスクワ旅行に発つずっと前から私が楽しみにしていたことの一つは、"ピアノを弾くカプースチンを間近で見る"ことであったが、もう一つは"素顔のカプースチンに接すること"であった。レコーディングを終えたカプースチン夫妻と、私たちは食事をご一緒させていただく機会を得た。

 カプースチンは日本料理や中華料理もお好きということで、夕食の場所は中華レストランと決まった。あまりニコニコと自分から愛想を振りまく性格でないのは知っていたが、再会した瞬間も難しそうな顔をしていて、ちょっと見たぐらいでは機嫌が良いのか悪いのかもわからない。通訳を兼ねてくださり、明るい雰囲気を作ってくださった鮫島さんのおかげで極度の緊張は解けたが、食事をしながらさて何を話したら良いか...実は私も少し緊張していた。円卓に全員がつくと、まず飲み物は?となったのだが、カプースチン氏はウォッカが大好きな模様。「私たちはまずビールを」と言うと、いきなり悲しい顔をされたのだが、その悲しい顔が冗談なのか本気なのか、これがわからない。誰か一人が気を遣って、「じゃあ、私もウォッカを」と言うと、皆も「そうしましょう」と言うことで次々とウォッカを頼もうとすると、これが笑顔になるかと思いきや、これもまた釈然としない顔...。「どうして皆がウォッカを?」 さらにこのあと、「ビールが先か、ウォッカが先か」と、ロシアのことわざまで絡ませて数分にわたる議論を展開したが、結局は皆がそれぞれ好きなものを頼むことになった。それにしても飲み物を頼むだけなのに、いきなりこんな面白いやりとりが出現するとは思わなかった。(結局、私もウォッカ一杯戴きました。)

 それまで、彼のインタヴューなどを読んで知ってはいたけれども、質問に対する答え方が実に面白い。その日も、彼が何かひとこと答えるたびに一同は爆笑の渦だった。彼も本当は笑わせようと思っているのかもしれないが、自身は終始ニコリともせず真面目な顔で答える。もっとも、本当に嬉しいと感じた瞬間だけは、決して正面に笑顔は見せず顔を斜め下に向けて肩を揺らして笑うのではあるが。とにかく、ここで会話のすべては書けないけれども、氏の答えはいつも知的なユーモアにあふれたものだった。

レッスンを受ける!
レッスンを受ける!

 さて、私にとって貴重な体験となったのは、カプースチン本人の前で彼の作品を演奏したことである。「ソナタ・ファンタジー」はそれまで、作曲家自身の演奏をCDで何度も聴きこんではいたし、一応コンサートで取り上げたこともあるにはあったが、いざ作曲者の前で弾くとなると、やはり緊張はするものである。ロシアに着いてからというもの、丸5日間にわたり観光などをして旅行者のようなことをしていた私は、ずっとピアノに触れずにいたわけである(練習場所が見つからなかったのだ)が、そんなことは言っていられない、気合で全4楽章を弾き通した。椅子に座って黙って耳を傾けていたカプースチンは、指使いについて貴重な助言をしてくれたほか、逆に私に2、3の質問をしてきた。第3楽章と第4楽章のどちらが難しいかと訊かれたので、第3楽章の方が難しいと答えた。彼自身も同じだと言う。だが、この曲はもう長い間弾いていないらしい。それはそうだろう。次々と新しい作曲を手がけているのだから、過去の作品はある意味忘れていかなければ、目下作曲中の新しい音楽に集中できない。私が、最後に「トッカティーナ」を聴いてほしいと言うと、今度はピアノの近くに立って聴くとおっしゃり、なんと譜めくりを始めた。私は弾くのに必死だったが、隣りでカメラを持って"動くカプースチン"を撮影し続けていた高沖氏は、あとで、「作曲家本人に譜めくりさせてた!」などと、私に非難の声を浴びせながら一緒に喜んでいた。

珍しい?カプースチンの笑顔
珍しい?カプースチンの笑顔

 冗談はさておき、私はカプースチンと接触したことで、大きな刺激を受けたような気がする。もちろん、彼の作品においての奏法上の細かいアドヴァイスもあったし、実際に彼が弾く姿も見たが、なによりカプースチンという作曲家の、音楽の感じ方や考え方に触れたことが大きかったように思う。彼には、ロシアの伝統を誇るクラシック音楽教育の殿堂、モスクワ音楽院での勉強がしっかりと身に染み込んでいて、作曲している音楽がジャズ(リズムとハーモニーが)であるということ以外には、完全にクラシック音楽の理想を追い求め続けている人であると感じた。だから、記譜に関することや、リズムやテンポにもとても厳格だ。「生半可な演奏はしたくない」という気持ちが、自身にもすごく強いのだということがわかった。例えば、今回の自作自演の録音を撮るのに、作曲家自身が6ヶ月以上もそのための準備にかかった(練習時間がそれだけ必要であったという意味)と言うのだ。音楽的には作曲家本人が一番知り尽くしているわけだから、何にそんなに労力が必要だったかといえば、結局テクニック上の完成度を求めるためにそれだけの練習時間が必要だったのである。録音のための準備は、あのプログラムを見るかぎり相当大変なものだったろうと思う。しかもその間、作曲の筆は休めねばならない。「これがラストレコーディングになるかもしれない」と本人が宣言したのは、今も尽きぬ自分の創作の意欲と照らし合わせてみた時に、納得のいく演奏を維持(復活?)させる作業はあまりにも大変なことであると悟ったためかもしれない。しかし、その待望の新録音が収まるCDも今年の秋頃(注1)には発売される。私もファンの一人として、今からその日を指折り数えながら待っている。

注1: 2003年6月30日にトライエムのクラシック事業が閉鎖。今後のリリース体制は不明(2003/7/22追記)

文: ピアニスト 川上 昌裕(ホームページ


ピティナ編集部
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